雄々しい、女々しい、社会のガン……スーザン・ソンタグの「隠喩」との格闘に教わったこと
2018.12.28
肝臓ガンの切除手術からこっち、「なんとか山は越えたかな」という実感が得られて、ようやく落ち着いて読書をする時間が持てるようになりました。病状がどう転ぶか分からなかったときは、その内容が「冷徹」とか「クリア」と表現されるような本よりも、「情」とか「あたたかみ」が前に出てくるような本を選んでいたので、けっこうメンタルに左右されていたんだな、と、ちょっと笑いがこみあげてきます。
「弱いねえ」と言われればその通りだけれど、まあ、「そのときそのときにふさわしい本がある」とも思いません? もちろん、弱っているときに選んだ本にしたって、丈夫になってきた今でもいい本だと思っていますが。
んでもって現在は、スーザン・ソンタグの『隠喩としての病い/エイズとその隠喩』を再読中です。
スーザン・ソンタグは私のオールタイム・フェイバリット作家のひとり。『反解釈』に収められている「キャンプについてのノート」は、10代から20代にかけての私に決定的な影響を与えてくれたエッセイ。
「高尚な文化の感覚だけが洗練を独占しているわけではない」
「悪趣味についての良い趣味もある」
というふたつのセンテンスは、私の行動の規範になったと言っても過言ではありません。
『反解釈』を読み終わった後で夢中になっているのが、『隠喩としての病い/エイズとその隠喩』です。
この本は、「病気と、病気にかかった人間の体」について書かれたものではありません。「病気が、この社会でどのようなメタファーとして利用されてきたか」ということについて、知性でもってメスを入れていくような本なのです。「隠喩としての病い」と「エイズとその隠喩」は、過去には別の本として発売されていたようですが、私の手元にあるのは、2本のエッセイを1冊にまとめた本です。
たとえば「社会のガン」という表現を目にしたこと、耳にしたことがある人は多いでしょう。言うまでもなくガンは人間をはじめ多くの動物(有機生命体)がかかる病気であって、「社会」という生命を持っていないものに巣食うものではありません。「社会」に悪しき影響を与える何かしらの要因が「ガン」と表現されたとき、「ガン」は単なる病名以上の意味を持つようになります。
「社会の心臓麻痺」とか「社会の肺炎」といった表現は、少なくとも日本ではまったく流通していない(ほかの国に関しては、私は不勉強ながら知りません)のに対しての、「社会のガン」。
この時点で、「心臓麻痺/肺炎/ガン」という、本来ならば「病名」というカテゴリーでまったく同列に並べられてもいいはずの三つの単語は、まったく違った意味の重さを帯びてくる(本の後半の『エイズのその隠喩』では、当然「エイズ」に課せられた意味の重さを解読しています)。そういった「意味の重さの違い」「勝手に負わされてしまう罪悪感や負担の違い」が、現実の患者の心理面にどのような影響を及ぼすか。そこにまで踏み込んだ本だと私は解釈しています。さすがはソンタグ、再読とはいえ体を壊してからは初めて読むこの本は、本当に刺激的でした。
現在これといった病気にかかっていない人であっても、「なんで『雄々しい』と『女々しい』で、こんなに意味が違うわけ?」という疑問を一度でも持ったことがあるならば、この本から得るものはかなり多いと思います。ゲイである私も、健康体のときには「セクシュアルマイノリティにまつわる言葉や概念が、どのように社会で使われてきたか」を振り返りながら読んでいたことを覚えています。少々お高めの本ではありますが、大きな図書館などには置いてある可能性もあるので、ちょっとチェックしてみてはいかがかしら。
2018年、私は病気の治療をメインにしていましたが、2019年も仕事や読書にあてる体力が復活してきたことを大いに喜んでいます。皆様にとって、2019年が実り多い年でありますように。来年もどうぞよろしくお願いいたします。