記憶を留める女性たち
忘却すべきでないのに、忘却される物語。いや、豊かな戦後に、原爆の犠牲になった7万人もの(数も定かではない)被爆者のストーリーをむしろ忘れ去られるべきだという思いもあったのではないか。しかし、忘れてはいけないという思いで、広島の平和記念公園にある原爆供養塔に通い、遺骨を遺族のもとへ届ける女性(「広島の大母さん」)がいた。高齢になり、原爆供養塔に姿を見せなくなったその女性のことも、いずれ忘却されることになったかもしれない。『原爆供養塔 忘れられた遺骨の70年』(文藝春秋)を著した堀川惠子さんがいなければ。地道に粘り強い取材を重ねた堀川さんのおかげで、私たちは、原爆供養塔にまつられた死者たちのそれぞれの生、死者たちを喪い弔った人々の様々な経験と思いに圧倒されつつ、記憶に留めることができる。
弔う人々-市の女性職員、中央官庁からの役人、地元のボス
原爆爆心地はにぎやかな商店街であったという。その中央にあった浄土宗慈仙寺も、多数の檀家を抱え、広大な敷地を有していた。ところが、原爆が落下された日を境に、町は瓦礫の海へ。慈仙寺の境内跡の一角が持って行き場のない遺骨の行き場となり、小山となった。焼けただれた市長室も、そのような遺骨が積み重ねられ、足の踏み場もなくなった。何千という遺骨を積み重ねた市長室に当時20歳くらいの女性職員が「そうせずにはいられないような顔色で」畳一枚敷いて過ごし、お経をあげ続けたという。無造作に遺骨が積まれていた状況からの転換は人々をほっとさせる。
生活を再建しようという力は人々を前進させる。しかしその力だけでは、死者たちは忘却されていく。そこに立ち止まり、記憶をとどめようという力も、確かに必要なのだ。広島でも前者の力が圧倒的だったが、宗派を超えた僧侶たちが托鉢して町を歩き、散乱している遺骨を集めていく。マンホールの中、防空壕の中に埋もれたまま放置されていた死体…。そうして集められた犠牲者の供養をするための「供養塔」が慈仙寺の鼻に1946年に完成。この供養塔は以降市民たちの祈りの場となった。その後この供養塔は平和記念公園内でもある同じ場所に再建されるが、それは中央官庁や市長とやりあった内務省(建設省)から出向した市の局長の機転と行動力がなければ実現しなかった。
供養塔の再建には、歴史に名を残さない優秀な役人のみならず、お金をポンと出す地元のボスも必要だった。このボスは県や中央、さらにはGHQにも働きかける。原爆投下により2人の愛娘を失っているということが、原動力になっていたはずである。身内にも心の内を明かさないまま奔走したその人物にも涙する。
「広島の大母さん」の運命の日の経験
後に「広島の大母さん」と呼ばれもした佐伯敏子さんが供養塔に通い出すまでの足跡も読みごたえがある。子守奉公のあと、置屋で働く。選択肢は、春を売るか妾になるか。どちらもいやだ、逃げ出したい。しかし、家族が受け取った500円の取り立てをされたら、家族が困る…。佐伯さんは「‘キチガイ’になろう」と決める。主人と女将の前で張り替えたばかりの青畳に立小便をする等…。暗黒の時代に抑圧されながらも、能動的に闘った女性がいたんだ!と胸が熱くなる。晴れて脱走できた佐伯さんが戻ってみれば母は知らない男性と再婚していた。亡くなった父がかわいそうだと佐伯さんは母を責め、金を無心するなど困らせ続けた。後ろめたくて娘に金を渡し続けた母も、女性が生きにくかったその時代にサバイバルを模索した女性のひとり。様々な生きざまが浮かび上がって胸が熱くなる。
やがて家庭を持ち子どもを授かった佐伯さんは、運命の日、夫が出生し、子どもと姉の嫁ぎ先で疎開していた。疎開先から、そのころには思いやりに応える気持ちも生まれていた母のいる広島に行こうとバスに乗車していた。全身が熱気に包まれたような熱さを感じる。広島の方角に不気味な雲。とにかく広島へ急ぐ。そちらから避難してくる人たちが無言で長蛇の列をなしている。全身が真っ黒、赤身が剥き出しの、怪物のような人々。市内の様子の描写は凄まじい。道路の上を歩くと靴の裏のゴムが煮えるようで、倒れている人々の体を踏んでいく。熱さが和らぐからだ…。真っ赤に焼けただれ服を着ていない死体のひとつがまだ生きていて、踏みつけた佐伯さんの足首を掴み、連れて逃げてと懇願される。怖くなり、足先を蹴り上げ、逃げるように先に進んだ。どこにも母がいない。「殺してくれ」と叫ぶなど阿鼻叫喚の負傷者が重なりあった国民学校にいき、足を踏みつけ、叫び声で「お母さんの声じゃない」と確認した。大やけどで顔が判別できないからだ。
13人もの家族や親戚がその年の末までに奇妙なかたちで息ひきとった。ほんの少しの傷しか負っていなくても、血を吐き、下痢をし、身体の内側から奇妙な臭いを漂わせ、苦しみながら死んでいった妹など。残された家族で絆を再確認…ということにはならない。みとった佐伯さんと、汚いものかのように遠ざけた姉たちの間に亀裂が生じもした。母を疎開させなかったことで佐伯さんは姉たちに責められもした。そして、佐伯さん自身も、妹と同じような症状があらわれた。しかしなんとか生き延びる。出征から夫も帰ってきて、原爆症の症状に苦しみながらも新たな生活を始める。
遺骨を家族へ―残された者の祈り―
原爆供養塔に通うようになった佐伯さんは、遺体を踏みつけて家族を探したこと、子どもを連れて歩き回り被曝させたことを生涯悔いた。みながお参りをする慰霊碑ではなく、手を合わせる人がほとんどいなくなった供養塔に日参し、周辺の掃除をするようになった。死者たちには祈りも懺悔も意味はないかもしれない。しかし、残された者自身にとっては確実に意味がある。
そして、ラジオで供養塔の中に夫の母が遺骨となっていたことを知り、遺骨を引き取ったことを機に、地下室の遺骨の記録を確認し、家族のもとへ渡そうと奔走することになる。感謝する遺族ばかりではない。不気味がられることもある。引き取りを拒む遺族もいる。遺族たちそれぞれの数十年が重い。佐伯さんはいつしか広島で原爆の語り部となるが、さらに時が過ぎ供養塔に通えなくなる。その佐伯さんのいる老人保健施設にたびたび訪問し取材を重ねた著者も、遺骨に記された具体的な情報をもとに、佐伯さんの足が届かなかった遠方を重点にして探す。その過程で納骨名簿に掲載された名前や住所は本当に正しいのかという疑問がわいてくる。
「おうとるほうが不思議よね」と佐伯さんは著者にいう。大勢の人が顔もわからない状態で積み上げられていった。正しく記録できるほうが不思議なのだ。佐伯さんはそれをわかっていても、本当の真実ではなくても、死者を見捨ていることができなかったのだ。息を引き取るまで家族のもとに帰りたいと思っていたはずなのだと。
少年兵たちが広島で担ったこととは
では、そもそもその情報は誰がどのように記録したのか。炭鉱や農村からの少年兵たちが、放射能の影響を知らされていないまま、原子野の真ん中に生身で送り出された。18歳程度、いわばティーンたちが、ひっぱるとズルッと皮膚が剥けたりする遺体を運び、踏んで、並べた。そのときの臭いが忘れられないというひと、すっぽり記憶がないひと。何事も慣れる、何の感情もなくなり、遺体を触ったその手で平気で握り飯を食べたひとも。処理が間に合わないと重ねて埋められた無数の人々。か細く「助けて…」という声が「遺体」の山から聴こえてもどこからかわからないと麻痺してひたすら処分…。
後日、彼らもわけのわからない後遺症に苦しんだ。彼らが遺体の手がかりを記録した。少しでも手がかりがあれば残してやりたいという思いはあったが、情報は乏しく、それが正確であることは期待できない。ところで、同じ時期にすぐそばにあった海軍兵学校の同じ年頃の生徒たちは、放射能にまみれた現場での作業を担わなかった。エリートの卵たちにはそんな危険を冒せるわけにはいかないという海軍の上層部の考えがあったのではないか、と作業を担った元少年兵には、貧しく弱い立場の者から捨て駒のように殺されていくという思いが残る。
前進し忘却していこうという流れに、消してはならない記憶があると呼びかけるような、静かだが濃厚で多くの死者やなお耳を傾ければ記憶をたぐりよせる人々の記録をとどめる、貴重な労作である。