政治はどうなっているんだ?
それぞれの姓のまま結婚したいと望むカップルでも一切例外を認めず結婚するならどちらかが今までの姓を改めよと迫る民法750条を改めることすらできていない日本の政治。
何もみなに別姓で結婚したまえと言っているだけではない。望むカップルだけ例外的にその選択を可能にするくらい、なんとでもないと思うのだが、96年に法制審議会が、選択的夫婦別姓を盛り込んだ民法改正案要綱を答申してから、22年も経過した今ここで、全く無風。2015年の最高裁大法廷判決は国会が決めることだよね、と押し戻してしまったのだが、今通常国会では、民法改正案要綱に選択的夫婦別姓と並んで掲げられた婚姻適齢を女性も男性と同じく18歳以上とする民法731条の改正は果たされる見込みなのに(成人年齢についての民法737条改正と併せて)、民法750条については見込みがない。どうなっているの、政治。政治を知りたい。
というわけで、今回は、長くディープに国会、政界を見てきた朝日新聞政治担当編集委員の秋山訓子さんの『不思議の国会・政界用語ノート 曖昧模糊で日本が動く』(さくら舎、2018年)を読んでみた。
そうかもしれないとうすうす気づいていたがやはりこうなのか。違憲だ、条約違反だ…という理屈になるほどと呼応してくれるわけではない、日本政治のリアルをまざまざと知る。
「言語明瞭、意味不明瞭」!?
冒頭の「保守の知恵」からがすごい。「言語明瞭、意味不明瞭」。故竹下登首相が自らをそう認めていた。ていねいに説明しながらも、結論はいったい何を言っているかわからない。そ、それでは民主政の根幹をなすアカウンタビリティも何もないではないか…とツッコミたくなるが、ツッコミつつもリアルを知るべし。意味不明瞭で、賛成派と反対派の双方のメンツをたて、話を進める。政治とはメンツが重要なのだ。
「仲良し」も政治用語となると、関係性をまわりに知らしめ、自分の存在感や重みを示すための言葉。選挙のときは、「仲良し」の大安売り、応援に入るときに使いまくる。しかし、党の代表選に立候補しようとしても、推薦人どころか票さえも入れなかったりもする、シビアな「仲良し」の現状だ。
「挙党一致」も、使い方によって意味が七変化する、典型的な政治用語。総裁選を争った後破れた非主流派が使うときは、「組閣にあたっては、水に流して、我々の派閥からも大臣を出してくれ」という意味である。一時の安倍一強体制のように強いリーダーが使うときは、「俺に逆らうなよ」という意味だと。なるほどである。
「営業」に励む官僚たち
政治家を通じて(説得して)政策を実現したい官僚たちのふるまいも登場する。たとえば、「霞が関文学」。玉虫色だったり、あいまいな表現だったりして、いかようにも文意をくみとれるように表現する技術。月例経済報告は、霞ヶ関文学の典型で、1991年9月の「緩やかに減速しながらも、引き続き拡大している」が有名だとか。なんだかな。偏差値エリートがいったい何に知恵を絞っているのか…。いや。とにかくツッコミをいれつつも、まずは、リアルを知ろう…。
国会対応の官僚たちは、国会対策委員長室を訪れては、自分たちの法案を少しでも早く国会で審議、成立させてほしいと「営業」する。その極意は、「3つの「お」」。お願い、お詫び、お礼。まさに、営業だ。市民としても、メモしよう。ぺこぺこした挙げ句にあれらの不祥事を起こしてしまったのでは、と舌打ちしつつ。
信頼関係を築きたい政治部記者は権力の監視ができるのか
政治部記者の知恵比べと悲哀も随所にある。オフレコ取材でも正確性を期すためにはメモをしたいものだが、メモをしないのがお約束。メモをすると、相手は警戒心を抱き、口の滑りが良くない。メモをしまうと、相手は表情が緩み、しゃべりもスムーズに。しかし、お酒の入る席などでは特に記憶ができない。箸袋や紙ナプキンにキーワードを書いたり、トイレでメモをしたりするが、翌朝起きたらさっぱりわからない、といったことがよくある。
総理番が若いのは、何か気にいられて取り入ろうということか?と思っていたら、そうではないらしい。最高権力者を朝から晩まで観察すれば、政治の基本的な流れがわかる。さらに、首相の動向を常にモニターするために、首相を文字通り走って追いかける(あちらは車で移動しても)。体力勝負だから若くなければやっていけないのだ。
「壁耳」、すなわち壁に耳をつけて中で行われている会議の様子を聞くという、第三者からみると滑稽ともいえる形態の取材方法は、政治記者にとってはベーシック。中には壁耳名人と呼ばれる記者もいるとか。聴力、耳をあてる微妙な角度、集中力などがものをいう。通風口に耳を当てるのを好む記者もいたとか。つまりはいつくばって聴くのだ。
「夜回り朝回り」も記者のベーシックな方法。フォーマルな記者会見だけでなく、朝晩追いかけて話を聞く。情報を取ることのほか、「こいつは今日も来ていた」という熱心さを見せることも大事、というまさに営業だ。かなり、タイミングが合わず、貴重な時間を無駄にしてしまうことも多い。首尾よく夜回りできたとしても、その後に電話をかける、メールするなど、自分だけとの信頼関係を築いてもらうためにアピールを重ねる。書いてはいないが、男性政治家に女性記者がアピールを重ねることで、男性政治家が取材源としての権力に物を言わせセクハラに耐えさせる、なんてことが起こりかねない、危ういクローズドな関係を築こうとしていないか、心配になる…。オープンな記者会見だけで、というのは無理なのだろうか…と素人目には思う。
「番記者」の微妙な立ち位置も、率直に書かれている。有力な政治家の担当記者、すなわち「番記者」は、相手の懐に入り込み、信頼を得なければ情報を取れない。しかし、癒着してしまえば、権力を監視するという記者の役割を果たせない。ある政治家は、「記事を書かなくなってこそ、政治記者として一流」と言ったとか。それでは、どっぷりインサイダー。信頼され、情報をためこんで、読者は置き去り。それでいいのか。
マッチョな政治を少しでも変えるには…?
政治が男社会というにおいがただよう、用語もある。たとえば、「オヤジ」。秘書が議員を、議員が派閥の親玉を、こう呼ぶ。では女性の政治家は「おふくろ」というのかと思いきや、そうではない。「ヒメ」なら耳をしたことがあるという。女性議員には、リーダーになることを期待せず、美しく控えていればよし、とでもいうようだ。
政治分野における男女共同参画推進法が成立したが、理念法だ。本著が執筆された時点では同法は成立していなかったが、政治分野での女性進出が進まないことも取り上げている。なんだかんだいって、候補者を決める党幹部は、「女にはできない」と思っているとしか思えない、という。できないような政治のありかたなのだ。男同士の夜のつきあいで、「人柄」をみて候補者を決めてはいないか。権力闘争も、胸襟を開いたつきあいも、夜のインフォーマルな会合で。育児と両立するのは難しいし、男ばかりのそんなつきあいに女たちは入りにくい。入っていっても、セクハラの被害を受けかねない。国政だけでなく、地方でも女性の議員は少ない。このまま自然増を待っていても道は遠すぎる。クオータ制の導入しかないのではないか、と著者はいう。う。それとはほど遠い政治分野における男女共同参画推進法で喜んでいてはいけなかったか。とはいえニワトリが先か卵が先か。自民党では、クオータ制など論外という空気。その後のくだりがぐさっとくる。「選択的夫婦別姓だって、すっかり政治の表舞台から遠ざかってしまった」。
こんな政治状況で、「女性の活躍」などというスローガンが掲げられているシュールさにめまい。とはいえ、めまいをしていても何もならない。傾向と対策を考えねば。考えるとっかかりになる本著を、時々ひもといて、更なる運動、いや「営業」に励みたい。