ポスターと副題から、男たちのハートウォーミングな友情&人情映画かと思ってスルーしていたのだが、韓国では1200万人以上動員した大ヒット作だとか。日本でもSNSを通じて評判が急速に広まって、都内の映画館では連日立ち見も出る状況だという。
実はのほほんとした人情映画ではなく、光州事件を題材にした映画と知り、速攻で観に行くことした。
誤解を恐れずに言えば、民衆が蜂起するシーンが出てくる映画にはいかんせん弱い。
ときは1980年5月、ソウルのタクシー運転手、キム・マンソプ(ソン・ガンホ)は、市街で頻繁に起きるチョン・ドハン軍事政権に反対する学生デモに「親のすねをかじっておきながら、勉強もしないでデモなんかしやがって……」と冷ややかなノンポリの市民。
妻に先立たれ幼い娘とふたり、家賃の滞納もふくらみ、目の前の暮らしで精一杯のマンソプからすれば、学生達のデモは、ボンボンの道楽くらいにしか見えていない。
そこへ、戒厳令下の光州で異変が起きていることを聞きつけたドイツ人記者ユルゲン・ヒンツペーター(トーマス・クレッチマン)がやってくる。
ソウルから光州まで往復すれば大金を払うというピーターを、他のタクシー運転手を出し抜くかたちでタクシーに乗せ、何も知らぬまま光州へ走り出すマンソプ。
軍の検問をくぐり抜けたどり着いた光州で目の当たりにしたのは、チョン・ドハン政権率いる空挺部隊による、市民への弾圧と虐殺だった。
事実をもとに再構築しているというこの話、よく出来ているのが、ごくごく普通のノンポリの一市民マンソプが、理不尽極まりなない国家の弾圧と現状を目の当たりにして、自分も動かざるを得なくなってしまうところをよく拾いあげている。目の前の出来事に「俺は一体どうしたら・・・」とギリギリの葛藤を経て、苦渋の決断で行動を起こしていく。
実際、当初光州で起きていた反政府デモも、ソウル市街でたびたび起きていたデモと同じように、学生たちを中心にしたものだった。
丸腰の学生たちが男女問わず棍棒で殴打され、銃口を向けられ、連行される。あまりの酷さに、地元のタクシー運転手たちが結束してケガをした学生たちを病院に搬送し、市民も参加して空挺部隊に抗戦したのは実際の話であり、マンソプとピーターもまた、実在の人物を下地に描かれている。
同じ題材でも、これが、運動を率先してしていた学生の視点から捉えたものであれば、自分と隔てられた政治思想を持つ志の高い……スノッブの出来事として遠くに感じたことだろう。それこそ、冒頭でマンソプが、「親のすねかじってるくせに……」と言い放ったように。
空挺部隊から向けられる銃口が無抵抗の市民に向けられた瞬間、権力は、実体を伴ってゆらりと立ち現われる。
国が、国民に対してここまでやるのかと息を飲む。
光州と外部を繋がる道路も電話を断たれ、新聞でも報道されない。わずかに報道がなされても、「暴徒による反乱」と書かれてしまうのだから、事実はいとも容易く修正されてしまう。
残虐な弾圧も恐ろしいが、転がり落ちるように権力が暴走していく過程が、また、生々しい。ひと度情報が規制されると、権力の暴走に一気に歯止めが効かなくなることを肌身で感じる。
韓国の人たちは、このような弾圧と抵抗の歴史を、何度も何度も乗り越えて来ているのか。
普段なら、民衆蜂起の場面には無条件で涙腺決壊してしまうのだが、今につながる歴史を伝えようとする映画の熱量に、これはエモーションで回収せずに事実起きた出来事として、しかと受け止めねば、という気持ちになってきて、涙も引っこみ見入ってしまう。
光州事件のその後。
映画は最後、マンソプが客を光化門まで運ぶところで終わる。光化門といえば、2016年にパク・クネ大統領の退陣を求めて20万人の人々がキャンドルを灯し集まった、民主化の象徴的な場所だ。
長年、独裁政策を強いていたパク・チョンヒ元大統領(前大統領パク・クネの父)の暗殺に端を発した光州事件から、パク・クネ前大統領の退陣まで。
独裁者から自由を守り、正義と関わっていく、韓国の人々の今に繋がっている。