モヤモヤしながらも常に気になる監督、ソフィア・コッポラ「The Beguiled/ビガイルド 欲望のめざめ」
2018.03.16
それにしても、ソフィア・コッポラ。そこはかとなく苦手意識を抱きつつも、その内訳を解明できないまま、早十ウン年。「愛の反対は憎しみではなく無関心」と、マザー・テレサも断言してるくらいだし、モヤモヤとしながらも常に気になるのは、それは、ひょっとすると、愛なのかも……しれない。
というわけで、「The Beguiled/ビガイルド 欲望のめざめ」を観た。公開後はじめての休日とあって、場内はほぼ満席。客層は30代あたり、ソフィア・コッポラ青春直撃世代が中心か。
舞台は1864年、南北戦争下のヴァージニア、森の中。人里から断絶された男子禁制の女子寄宿学園に、敵兵(北軍兵)の負傷兵がまいこむ。男の登場によって生じる、女たちの反応と変化。
設定と邦題サブタイトルだけを見て、「むき出しにされる女の性欲と渦巻く嫉妬」みたいなことにならなければいいなと身構える。炙り出される女の本質イコール性欲&愛憎劇といった、よくある古典的な紋切り型は、女の欲望への見方としてあまりに狭窄だし(欲望は性欲だけじゃないだろう、単純に)、百歩譲って女に性欲があることが認められていない社会通念へのアンチだとしても、その結果示されたものが、女の性欲の肯定になっていない作品は多い。
トーマス・カリナンの原作小説は、1971年にも、ドン・シーゲルが『白い肌の異常な夜』で映画化しているが、こちらはまさに、女の性欲をオカルト的に描くものであった。たった一人の男(クリント・イーストウッド)の登場により、女たちの情欲が異様に掻き立てられていく。「盛り」のついた女たち。
ソフィアの解釈では、女の性欲をサイコなものではなく、あくまでも男の誘惑に対しての「反応」として描く。女たちは決して多くは語らないが、胸のうちで男に対する欲望と逡巡が見てとれる。むしろ不気味なのは、本心が見えず得体の知れない男の方だ。
『白い肌の異常な夜』とは異なり、女の情欲を悪魔化していない。その点では安堵したものの、それでも、ここで描かれる女たちが、えらく遠く感じてしまう。
ソフィアの描く「欲望」は、10代のアリシア(エル・ファニング)は性の目覚めを、30代のエドウィナ(キルスティン・ダンスト)は結婚相手を、50代のマーサ(ニコール・キッドマン)はアダルトなパートナーを求めている。
「今回の登場人物たちのどの世代も経験した今だからこそ、描けるものがある。年代によって女性のニーズというのは変わっていって、男性に求めるものも異なる」と述べているが、豪華な俳優陣も、世代ごとに担わされたテンプレ的な欲望をなぞるだけで、それぞれの個性があまり見えない。
加えて、『白い肌の異常な夜』では描かれていて、本作では意図的に改変された点も引っかかる。「ホワイトウォッシュ」という批判もあるように、『白い肌の異常な夜』で印象的な黒人女性のメイドが登場しないのだ。ソフィアはこの批判に不服の様子。
「アーティストにとって、やって良いこと、ダメなことを政治的に決め付けられるのはとてもつらいです。この作品で黒人奴隷のことも描いたら、別の映画になってしまう。私の狙いは別のところにあったのです。インターネットの台頭で、皆が簡単に批判できるようになったせいでアーティストは不自由を強いられています。アーティストにとって非常に危険な状況です」とインタビューで答えている。
ーーソフィアの作家性と和解できない理由が、ここにある。 自嘲はあるのだが、自己批判は無い。女の欲望の描き方がありきたりなことも、黒人女性を登場させないことも、すべては彼女の思い描いたテーマに沿って人間が当てはめられるだけで、実際の人間を、肝心のところで描いていない。それこそが、彼女の作風でもあり、口当たりの良さでもあるのだが……。
いや、ここで描かれている女性たちの心理描写は、ソフィアにとっては、自身がこれまで経験してきたリアルなものなのかしれない。しかし、彼女の作品は一貫して、「ソフィアにとってのリアルと切実さ」ばかりで、他者を見る視点は希薄だ。
南北戦争下の南部を舞台に選びながら、黒人を描かない意図を「人間とは何かという普遍的なテーマ、普遍的な男女の力と関係を描きたい」として、切り離すのはどうなのだろう。
『白い肌の異常な夜』では、女生徒が黒人メイドに対して、「畑仕事なんて黒人のする仕事よ!」と吐き捨てるシーンがある。強い家父長制の下、抑圧を受けている女性が、同時に黒人女性へ抑圧を強いる。いまなおこのような差別構造は残っているというのに、彼女のいう普遍のなかに、黒人女性は入らないのだろうかと疑問がどうしても拭えない。
もともと、ソフィア・コッポラは、状況に向き合うよりも「洗練」にこだわる作家だ。映画を観るときくらい現実に目を背け、甘美と洗練を追求する快楽主義的なスタイルも、映画の楽しみではある。実際、ソフィアは、最先端の「オシャレ」な雰囲気を、色褪せないフレッシュな鮮度を保ったまま映画に落とし込む画力の才能において突出している。洗練されてるからダメということでなく、表現と内容がマッチしてればいいのだが。
「他でもない私のリアル」を見せるスタイルから、わずかに外に向けた眼差しへと変化が見えた本作ではあるが、美しさばかりが際立っている印象までは変わらず。
帰り道、雑多な歌舞伎町をヨタヨタ歩きながら、これは単に貴族趣味の芸術の美しさに反感を覚えてしまう自分の大人げなさなのだろうかと自問する。ソフィア・コッポラとは、今回も、和解に至らず。今後もモヤモヤを抱きつつ気になるのであろう作家だ。