『ニューヨーク・タイムズ』でハリウッドの大物プロデューサー、ハーヴェイ・ワインスタインが女性に対するレイプやセクハラなどで告発されたことに端を発し、次々と明るみになっている映画業界内の性暴力。
「打ち合わせ」と称して女優やモデル、自社スタッフを誘い出しては性行為を強要、作品への出演や口止料で口封じを行ってきたワインスタイン。被害者はこの30年で少なくとも50人以上にものぼるという。
告発を潰すために元スパイや軍人を雇って諜報活動をしていたことも明らかになり、権力を笠に着た加害行為と周到な隠蔽工作に、そして、多数の業界関係者がこの事態を知っていたにもかかわらず黙認され続けてきたことに、ハリウッドはいま、業界として性暴力にどう向き合うかそのスタンスが問われているが、その余波は、作品を享受するファンにも広がっている。
観客は受け手であると同時に作品を支える一人でもある。この事態をどう受け止めたらよいものか。
私自身のことで言えば、特に、これまで親しんできたクエンティン・タランティーノ監督については戸惑いも大きい。
タランティーノといえば、虐げられた者のチャンバラ復讐劇が痛快で、虐げられた者として時には黒人に、時には女性に焦点が当てられていた。
『デス・プルーフ』では、「クソな男は打ちのめしたれ!」と言わんばかりに男の暴力に女達がボコボコに反撃しまくるシーンには快哉を叫んだもので、この映画が「差別を是正しよう」という啓蒙メッセージを掲げたものではないにせよ、理不尽な男の暴力に屈しないインディペンデントウーマンを支持する内容(ただし、映画オタクの一方的な女性ファンタジーともいえる)だったのだ。
タランティーノは今回の事件にどういう態度を示すのか。
ファンが見守るなか、長年ワインスタインの性暴力の実態を間近に知りながらも黙認してきたことをタランティーノは告白した。被害者のなかには、タランティーノの当時の恋人もいる。実際には、ワインスタインの暴力を見逃し続けていたということだ。
ネット上では、「もう彼の作品は観ない」「そんなこと言いだしたら映画など楽しめない」というようなコメントで割かれ、評価されている作品の作り手が倫理的に問題があることが露呈した際に必ず論争になる、いわゆる「作品と作り手は別物なのか」問題が湧いている。
さすがに今回の事件についてワインスタイン本人を擁護する人はほとんどいないようだが、タランティーノについては、「彼も(ワインスタインの)被害者」とか、「とはいえ作品に罪はない」というような作品と作り手のバックグラウンドを是々非々とする意見も少なくない。
そこには「クリーンな人間が作るものしか作品を認めないのは芸術を理解していない野暮」というようなこれまで大手を振るっていた芸術論がある。
確かに、倫理的に外れた人間が良作をつくることはある。しかし、作品は作品、作り手は作り手と是々非々とすることが真に映画をたしなむ態度ということなのだろうか。自分自身が被害に遭っていたら。自分の身近な人が被害に遭っていたら。それでも「作品と人間性は別」と同じように分けて考えられるのだろうか。
起きた問題が海外のことだったり、自分とは関係のないシーンやコミュニティのことだからと、どこか遠くの出来事として作品を楽しむことできるのだとしたら、それは対岸の火事として自分と切り離しているからこその御都合主義なのではないだろうか。
いや、さらに言えば、本来なら被害に自分が遭ったら、とか、恋人や家族が被害に遭ったら、などと身近に置き替えなければ被害を捉えられないことも違うんじゃないかとも思っている。それは、身近な人さえ被害に遭っていなければ問題を無視しても大丈夫ということにもなり兼ねないわけで、本来性暴力は誰にふりかかっても許されるべきものでない。
「作品と人間性は別」といえば、倫理について放棄していいわけではないのだ。
そもそも作品を評価することは、作り手の権威を高めることでもある。
昨年末、東京国際映画祭で上映された新人監督ネイト・パーカーの『The Birth of a Nation』は前評判も高くオスカー狙いとされていたが、監督が過去にレイプで起訴されていたことが報道され、世界的にもほとんど上映されることなくお蔵入り状態となったことを思い返す。
映画は史実に基づいた、奴隷の黒人たちによる一斉蜂起を題材にしたもので、アメリカの人種差別の歴史を考える上では貴重な作品ではあった。が、多くの批評家が過去の事件を考慮して作品を評価することをためらい、作品は大々的に上映される機会を失った。
このことは真っ当な流れだったと思う。製作者の性暴力が明るみになった上で作品に評価を与えることは、「作品さえよければ性暴力も許される」というメッセージに加担することだ。倫理的に問題のある者に権威を与え続けた結果何が起こるのか、その行き着く果て、わかりやすく表出したのが今回のワインスタイン事件なのだから。
理性で抑え込んだというより「萎えてしまった」というのが自分の感覚には近いのだが、タランティーノの作品を今までのようにピュアに楽しむことはできなくなってしまったし、今後彼の作品が世に出ることも難しくなるかもしれない。
しかし、映画は芸術であると同時に産業であり、社会的なものでもある。「作品と作り手は別物」という言葉に安易に同意することは、作家にまつわる問題を切り捨て、自分に無関係なこととしてシャットアウトすることと同義だ。
何も考えずに作品を受容することで、社会にどのような影響をもたらすのか。映画産業を支える者として、鑑賞者もその態度を問われている。今回のことで、このような性暴力罪は許さないという社会を作る転換期になって欲しい。