デモクラシー=民主主義を、多くの人は善いものと思っている。少なくとも、自分のことを自分で決めるなら、納得感、満足感がある。しかし、現実には、そうではなく、大きな不満を生み出す。たとえば、安倍内閣が提案し、国会の多数決で可決された安保法制などを思い起こせば、明らかである。藤井聡 編 適菜収・中野剛志・薬師院仁志・湯浅誠 著『ブラック・デモクラシー――民主主義の罠――〈犀の教室〉』(晶文社、2015年)は、橋下元大阪市長(以下、本著にならい、「大阪市長」とする)が推進した「大阪都構想」の住民投票をめぐる一連の動きを取り上げながら、デモクラシーが無条件に「善いもの」というのは、「デマ」に過ぎない、と説く。
「無条件」に「善いもの」という粗雑な議論はないだろうし、「デマ」ってあまりに刺激的ではないか、とは思う。しかし、自衛隊日報問題にみられる情報の隠蔽・文民統制の危機や、特定秘密保護法・安保関連法・共謀罪の強行採決が象徴する熟議の拒否、森友・加計問題にあらわれた権力の私物化…等様々な問題が明らかになっている安倍政権が、説明責任も放棄し、野党の臨時国会召集を拒否した挙げ句、ようやく召集した国会での冒頭解散。これまた憲法上疑義があると、憲法学者の指摘は無視される(「衆院解散、やっぱり無視できない「憲法上の疑義」木村草太が説く」ほか)。石川憲治東大教授(憲法学)は、今回の解散を「非立憲」であり「違憲」だと言って良いという(「論点 2017衆院選 冒頭解散、首相表明」毎日新聞2017年9月26日東京朝刊)。その衆議院選挙の結果、自民党単独過半数、与党で300超と各紙が報じている。同時に、安倍内閣の支持率37%、不支持率48%とも報じられており(日本経済新聞10月12日)、熱狂的な支持があるわけではなく、小選挙区制という制度のいびつさゆえともいえるが。このような現象をながめると、つい、デモクラシーを憂いたくもなってくる。
藤井聡の「ブラック・デモクラシーの構造ー橋下維新のテロを読み解く」は、デモクラシーが「まっとうな熟議」のプロセスをすっ飛ばすことに成功すれば、むき出しの「多数決」の論理だけが残り、「悪」だって正当化されてしまう、と述べる。ブラック・デモクラシーを仕立て上げるには、以下の4つの振る舞いを忠実に繰り返せばよい。①多数決崇拝、②詭弁(たとえば、話をすり替えたり/相手が言ってもいないことを「言っている」と強弁してその内容に対し批判し出したり/根拠も示さずにただ自説が正しいと声高に断定し続けたり/逆に根拠も示さずに相手が「間違っている」「デマだ」と強弁する、等)、③言論封殺(あらゆる権力を駆使して行う)、④プロバガンダ。民主主義は、案外その対局にあるかのように思える全体主義に相違なくなってしまいかねないのだ。
そして、本著執筆時(刊行は2015年)のブラック・デモクラシーの代表例が、大阪で繰り広げられた「橋下現象」である、と藤井はいう。全体主義こそがブラック・デモクラシーの別称だ、という藤井の言説ははじめのうち多少誇張があるように思える。しかし、藤井が担当する章「ブラック・デモクラシーの構造」で記述する、藤井自身が「橋下現象」の中で攻撃の対象とされた経緯を読めば、そう表現することも誇張ではないことがわかる。
藤井氏は、大阪都構想について住民投票を行うという決定が行われた2015年1月、小さなネットメディアで、都構想に関する客観的な事実情報を解説するコラムを発表した。しかし、それにもかかわらず、「約137万人のフォロワー」がいる橋下大阪市長のツイッター上で、「おバカなことをおっしゃる非礼極まりないお世間お知らずのお学者様」etc.と罵倒、誹謗中傷されるようになる。大阪市役所での定例の記者会見でも、藤井氏に対する誹謗中傷と名誉毀損を繰り返した。そのため、藤井氏の大学のオフィスには、抗議の電話やはがき、手紙が殺到した。橋下市長は、大阪維新の会に、藤井氏に対すして「間違った情報を示し、誤解を与えている」ことについて抗議するとともに、橋下市長と「公開討論」することを申し入れる文書を送るよう指示した。そして、実際に、大阪維新の会から藤井氏に書簡が届けられた。橋下市長は、藤井氏に対しその発言が虚偽であることの根拠を示さずに多数の非難、誹謗中傷を重ねた。このような状況で理性的な討論ができるはずがない。そこで公開討論を拒否した藤井氏を、「お約束」ではあるが橋下市長らは「逃げた逃げた」と罵倒した。藤井氏に限らず、橋下氏は自分への批判者に「公開討論」を申し入れるという方法を採用した。拒否されれば、「逃げた」と言い、実施されれば、詭弁を駆使し、批判を否定できたような印象を生じさせられる。「公開討論の申し入れ」は「嫌がらせ」の機能を果たす。そうすると、おおかたは、「公開討論の申し入れ」を避けたいと、橋下市長への批判を口にしなくなる。まさにブラック・デモクラシーの要素たる「言論封殺」である、と藤井氏は指摘する。
ネットや記者会見にとどまらない。維新の党から、藤井氏が教員を務める京都大学にその資質についての見解を問う書簡が送られたほか、維新の党の足立康史衆議院議員は予算委員会で文科大臣ほかに京都大学の藤井氏についての使用者責任を問う質問までしたりした。同党は、各テレビ局に、「藤井氏のTV出演の自粛を求める文書」も出した。これらは言論の自由や報道の自由に関わることだというのに、大手新聞社と大手テレビ局は黙殺した。抗議圧力に怯えて萎縮してしまったのであろう。彼らは、報道の自由を死守し、人々の知る権利に資する役割があることを想起すれば、このことがどれほどデモクラシーに深刻な影響を生じさせているかがわかろう。
批判を萎縮させた上で、維新の党は、大阪都構想について根拠のない言説(「とにかく大阪をよくしたい。その思いだけで、ここまでやってきました。子どもたちや孫たちに、素晴らしい大阪を引き渡していきたい。ただ、それだけです。住民投票で新しい大阪をつくっていきましょう」)、すなわち控えめに言って根拠薄弱なイメージ(あっさり言うなら「嘘」)をテレビCMや新聞折り込みチラシで発信した。ブラック・デモクラシーの要素「プロバガンダ」が展開されたのである。
その他、藤井氏は、橋下氏のツイッターや記者会見での発言から、議会における「熟議の論理」よりも、住民投票における「多数決の原理」を優先すべきと考えていること、理性も価値も無意味とするニヒリズムと同視できる多数決至上主義を察知する。
ブラック・デモクラシーの要素のすべてが明確な政治運動を展開したのが橋下維新である。ではどうしたら、ブラック・デモクラシーを食い止められるのか。真実を見極め、ニヒリストたちの言論封殺に絶対屈せずに、戦い続けなければならない、のだ、と藤井氏は締めくくる。おお。まさにそれがデモクラシーの実践ではないか。
続く適菜収氏の「潜入ルポ これぞ戦後最大の詐欺である」は、住民投票直前前に執筆されたもので、大阪維新の会のホームページに掲載されたパネル等を素材にして、それがいかに故意に人々をだまそうとした詐欺的なものかを明らかにする。たとえば、「有効求人倍率の改善」と題されたパネルは、なんとグラフの目盛りをごまかしたり、東京や愛知、福井など数値の高いところを削除し、数値の低いところだけ比較対象として、大阪の有効求人倍率が突出しているように見せている(!)。
その他、絶望的な言説が続く。しかし、大阪都構想は、僅差とはいえ、否決された。橋下市長は政界を退き、松一郎大阪府知事が代表を務める日本維新の会は失速し、2017年の衆議院選挙では影が薄く、11議席にとどまった。
大阪都構想をめぐり、橋下市長らは得意の「メディア戦略」を駆使して「大衆動員」を狙ったが、潰えたのである。ブラック・デモクラシーがあと一歩のところで完成しなかったのは、市民を分断し、激しく争わせた市長に対し、反対派がむしろ逆に団結したことにある、と最終章の薬師院仁志「ブラック・デモクラシーと一筋の光明」はまとめる。様々な思想や信条の持ち主たちが、ともに話し合い、譲り合いながら、反対を呼びかけた。大型看板を作るだけの資金はなかったが、一人ひとりがポスターを貼って歩いた。うんざりするような仕事を引き受けた人々がいたのだ。まさに、今回の衆議院選挙で、準備不足とはいえ(まさに野党が準備不足だからこのタイミングで安倍首相は大義なき解散に打って出たのだ)、各地で野党統一候補が実現し、党派を超えて私も含めた市民たちがボランティアで「うんざりするような仕事」を担ったことを想起する。
「一筋の」どころではない希望が見いだせる。私も、生活に忙しい。しかし、いくらなんでも、森友加計問題にみられるように、権力を私物化し、熟議を軽視し共謀罪等を強行採決してしまう安倍政権が、このまま官僚の忖度やマスコミの萎縮もあって、長期化して、ブラック・デモクラシーが完成してしまうのはみたくない。私も、この社会に生きる責任がある、と思って、衆議院選挙では選挙区の立憲民主党公認候補(はじめは自分で街宣車を運転し、ぼっちで街頭演説を始めたのだ!)の事務所に駆けつけ、証紙貼り、街宣時のビラ配り、電話かけ、政策集ポスティング、集会でのスピーチなどでコミットした。そして、それは私だけではなかった。投票日前日、上記候補の事務所での電話かけボランティアの12の席は全て埋まったのだ。中には遠方からはるばる駆けつけてくれた人もいた。
最後まで読めば、本著はブラック・デモクラシーを憂うだけの絶望の書ではないことがわかる。中野剛志の「終わりに」にある通り、本著は、民主政治というものがはなはだ不完全で、容易に堕落し、危険ですらあることを承知した上で、「大日本帝国の『実在』よりも戦後民主主義の『虚妄』の方に賭ける」(丸山真男)のではなく、虚妄を拒み、抵抗することの手がかりを提供しようという「民主政治の取扱説明書」といえるだろう。