忘却の政治
小池百合子東京都知事が、9月1日に営まれる関東大震災朝鮮人犠牲者追悼式への追悼文送付を断った。歴代の都知事は1970年代から送付し、昨年小池都知事も送付した。しかし、3月の都議会一般質問で、古賀俊昭自民党議員が碑文に6000余名という数を根拠が希薄等とし、追悼の辞の発信を再考すべきだ、と質問ししたのが、契機となったようだ(「関東大震災の朝鮮人虐殺 小池都知事が追悼文断る」東京新聞2017年8月24日朝刊(辻渕智之・榊原智康))。植民地支配の負の歴史を忘却する政治。「都民ファースト」の「都民」から朝鮮人は排除されている。
忘却の政治では、差別と排除が繰り返されること必至である。焦りながら、本著を手に取る。中村一成著『ルポ 思想としての朝鮮籍』岩波書店。書名に目をひかれる。日本で生まれ日本国籍を付与された私は、「なぜ日本国籍を有するのか」を考えることがない。本書に登場する6人は違う。最終章である6章で、作家金石範(1925年生)は、1969年生まれの在日三世である中村に対して、こう語る。「いやこのタイトルいいよ。まさに私の朝鮮籍は一つの抽象化された思想です。思想の表出として使っている」。
国籍を思想の表出として生きてきた6人の目を通せば、国籍に無自覚で済んでいた自分が認識してこなかった、この国のありようが見えてくる。「1945年8月15日でガラリとこの国は変わり、以後平和国家として歩んできた」という歴史認識が、いかに在日朝鮮人の経験を無視した罪深いものであることなどが。
朝鮮籍とは
朝鮮籍。それが何なのか、そもそも理解すらしていない日本人が多いのではないか。与党の政治家にもそれが北朝鮮籍であるとの誤解をそんな誤解をしている、というか、むしろ植え付け拡散しようとしている人がいるのだから、目がくらむ。たとえば、法務省が2016年から日本に在留する外国人数の『韓国・朝鮮』の集計について、「韓国」と「朝鮮」を分離して公表する方針としたのは、自民党内の一部議員らが「日本に住む『北朝鮮国籍者』が実数以上多く見える」と主張し分離公表を求めたことに応じたものだという(韓東賢「「朝鮮・韓国籍」分離集計の狙い-3月公表の2015年末在留外国人統計から」に引用された朝日新聞デジタル2016年3月5日05時00分、現在はなし)。韓東賢が疑うように、政府与党は「朝鮮籍」者を「北朝鮮籍」として扱おうとしているのではないか。「植民地時代、皇国臣民として戦場にまで動員した朝鮮人を、敗戦後、「外国人」として無権利化する際、外国人登録証明書の国籍欄に記された「地域の総称」」(本著まえがき)という意味を、霧散したいという狙いを疑わざるを得ない。
1945年12月の衆議院議員選挙法改正は、日本の女性が参政権を付与された喜ばしいものである…と受け止めるだけではいけなかった。朝鮮人らの政治参加の権利を奪うものでもあったのだ。そして、1947年の外国人登録令により、在日朝鮮人を「外国人とみなす」こととし無権利化し、「外国人」として退去強制を含む管理・監視下に置いた。当時は主権国家として認められていなかった朝鮮から国籍を付与されたわけでもない。日本政府は、植民地支配で皇国臣民にした在日朝鮮人に原状回復するのではなく、諸権利を奪い、公的空間から排除した。朝鮮籍とは、日本が植民地支配の責任を取ろうとしない、「戦後」の欺瞞を象徴するものなのだ。
韓国が建国され、1966年の日韓条約で日本と韓国が国交を結ぶと、朝鮮籍から韓国籍に変える人々が増加した。パスポートなどの利便性から考慮すれば理解できる流れである。繰り返しになるが、「朝鮮籍」は朝鮮民主主義人民共和国(DPRK)(朝鮮民主主義人民共和国を日本のメディアはいつしか「北朝鮮」と呼ぶようになったが、本著は正確に記述する)国籍ではない。しかし、DPRKが核やミサイルで問題視されるたびに、朝鮮籍者への攻撃は強まる。記憶し、謝罪するのではなく、忘却し差別し攻撃する。なんと愚かなことか。とはいえ、バルネラブルな個人としては、差別と攻撃のターゲットになるのはたまらない。それでもなお、日本国内で朝鮮籍として生きるのはなぜか。6人の「思想としての朝鮮籍」をたどっていきたい。
朝鮮語ができず抑圧者の言語を経るしかない苦悩
在日二世として極貧の朝鮮人集落に生を受け、皇国少年だった高史明(1932年生)は、戦後は革命運動に身を投じ、やがて日本共産党の「朝鮮人は離党させる」との「組織決定」で排除され、総連の支部からも「朝鮮語のできない元共産党員」として忌避された。朝鮮人でありながら、思想や情感の全てが抑圧者の言葉である日本語を経るという苦悩を、高史明は何度も書いてきた。
電線を首に巻き自死しようとする父を兄と止めようと日本語で叫ぶ。「死なないで!」電線を留めた釘が弾け、自死もできないボロ屋で父が「アボジはもう生きることができない」と呟く言葉は、朝鮮語。家族の中ですれ違いが拡大していく。様々な絶望。
高が戦後でも特高時代のような拷問を受けたことに驚く。小林多喜二の写真のように下半身の前の方が内出血で真っ黒になったという。しかし、希望もある。日雇い労働者(ニコヨン)仲間が、警官数人が高を拘束して乗せたトラックの前に「キンテンを助けろ!」と次々と飛び込んできた。どん底を生きる者同士の共感は、共産党の上からの方針で物事が動くという発想を「インテリの傲慢」と感じる座標軸ともなる。
拷問を受けていた高を救出すべく、「キンテンはどこにおるかっ!」と伝説の人権弁護士布施辰治が怒鳴りながら署内に乗り込み、救出する。あれ、勾留理由開示とか準抗告でなくて?どんな手続?と21世紀の弁護士として思うが、警察も特高時代を引きずる一方、弁護士も署内に怒鳴り込みという迫力で押していたのか。高以外もだが、その生き様を駆け足にまとめるのは辛い。高が無国籍としての「朝鮮籍」を維持する思いの根底には、「国民国家の捨て子」の目線から国家を批判的に捉え直すという思いがあることを書き留めよう。
「自分の一番柔軟な生き方」としての朝鮮籍
在日朝鮮人連盟の青年組織で運動を始め、民族学校の教師を経て、朝鮮総連等で働いてきた朴鐘鳴(1928年生)は、韓国から来た人に「先生は朝鮮総連系ですね」と聴かれて「総連を抜いてちょうだい。私は朝鮮系です」と答えたという。朴にとっての「朝鮮籍」の意味が示唆される。朴も幼いころ剥き出しの差別を受ける。成績優秀でも、教師が不合理な理由を言い続け内申書を書くのを拒み、受験を阻まれる。心が折れ、学校へ行かなくなる(このような経験は皆にほぼ共通している)。喧嘩と悪さに明け暮れた中2からの3年間は、「命が死んでいた時代」。「人間にとって一番恐ろしいのは、展望、先が見えないことじゃないかと思うんですよ」。差別の恐ろしさを端的にとらえた重い言葉だ。それは、この世で生きる展望、自尊感情、社会への最低限の信頼関係をも根こそぎにしてしまう。だから、恐ろしいのだ。
終戦後、朴は、解放活動をリードする父を慕う青年活動家から叱責され、初めて差別される「チョーセン」ではなく「朝鮮」を教えられる。これが転機になり、必死に学び、活動するようになる。1948年文科省は民族教育を止め、教育基本法、学校教育法に服せという趣旨の通達をだす。1947年の外国人登録令以降の「外国人と見なしつつ、日本国籍を有する」という地位を、民族教育否定の「武器」としたのだ…。通達を依拠して、武装警官を動員しての朝鮮学校の強制閉鎖が続き、抗議運動も激しくなった。朝鮮人が朝鮮人を育てる教育を求めただけなのに、暴徒として弾圧された。朴は大阪でデモに加わり、その有様をつぶさにみて、今でも悪夢をみるという。
1000年近くを統一的な地域として存続してきた朝鮮全体が、「私が生きてきた朝鮮」だと言っても、若い人から、「国籍なんて符号みたいなもんちゃいますか」「先生かたくなに考えたらあかん」と言われる。しかし、朴にとっては「それが自分の一番柔軟な生き方だ」という。ふと、選択的夫婦別姓を求める運動をしていると、「なぜ姓にこだわるのだ。姓なんて記号だ」「かたくなに考えてはいけない」といわれたりすることを思い出した。こちらこそ柔軟な生き方を求めているというのに。
後編では、残る4人のそれぞれの「思想としての朝鮮籍」を取り上げたい。