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ヘイト・スピーチ規制について丁寧な議論をする手がかりに

打越さく良2016.12.20

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 個人の自由に対する脅威はあってはならない。特に、表現の自由は、(経済的自由と比較して)優越的地位を有している。経済的自由が不当に侵害された場合は、投票箱と民主政の過程によって是正することが可能だが、表現の自由など精神的自由が制約された場合には、そのこと自体が難しくなる。そして、規制を恐れて権力に刃向かうようなことは言いたくても言えなくなる(萎縮的効果)。傷つけられやすいが民主主義の基礎に絶対不可欠な表現の自由を制約すべきでない。

 …と、私もそうである弁護士など法律家は叩きこまれ、勇ましくいう。表現には、攻撃的な批判やきわどい風刺もあろう。問題なし。そうしたものが存在するのがリベラルな社会なのだ。
 しかし、とある町でムスリムの親が幼い子どもを連れて歩いているとき、「ムスリムのやつらと9.11!やつらに話しかけるな、中に入れるな」と書いてあるのを目にする、子どもに「あれはどういう意味なの」と問われる。そんな社会はどうだろう。カギ十字で彩られた「ヒトラーは仕事をやり遂げるべきだった」とプラカードを掲げたネオナチの行進。アメリカ白人仲間連盟と称するものの会長がシカゴの街角で人々に配布した「ニグロの強姦、強盗、銃、ナイフ、マリファナによって」「雑種にされ」恐怖に陥られることから白色人種を保護するよう強く訴えるリーフレット。実際にジェノサイドを煽った1994年のルワンダのラジオ放送。こうした実例はおびただしい。それでもなお、私たちは、「私はあなたの言うことを憎むが、あなたがそれを言う権利は死んでも守る」と勇ましく言い続けるのだろうか。標的にされている人々は、たんにそれを我慢することを学ぶべきというのか。ここまで問われると、リベラルな法律家も居心地が悪いはずだ。しかし、骨の髄まで表現の自由の重要な価値がしみ込んでもいるため、その問いにはスルーしたくなる。

 しかし、ジェレミー・ウォルドロン著 谷澤正嗣・川岸令和訳『ヘイト・スピーチという危害』みすず書房はスルーしない。ウォルドンは自分の立ち場が非常に論争的なものであることを知っている。何しろある書評でヘイト・スピーチの規制について検討すべき課題を指摘しただけで、「貴様は全体主義の糞野郎だ」といったメールを受信したのだから。
 本著の狙いは、先進的な欧州等でヘイト・スピーチを規制する法律の説明の提供、実はアメリカでもヘイト・スピーチを規制する法律について反対が一枚岩ではなかったこと、アメリカの立法者のみならず法律学でもヘイト・スピーチを放置するのではなく対処しようという見解もあったこと、それらを理解することで、ヘイト・スピーチをめぐり脊髄反射的で、衝動的で、思慮に欠けた論争に陥らず、真摯な検討を開始していけるようにすること、そしてヘイト・スピーチを規制する法律に反対する強力な議論を丁寧に応答し、また単なる不快感から守ることと、個人の尊厳への攻撃から守るということとの間の区別はなし得、ヘイト・スピーチを規制する法律を市民の尊厳を支持するコミットメントを示すものとして見なすのは有効だ、という議論を展開すること、という「ささやかなもの」だ、とウォルドンはいうが、難解な諸問題に真摯に挑んだ力作である。

 第1章では、ヘイト・スピーチ規制を導入する世界的な趨勢が紹介され、規制を認めないアメリカの現在のありようが決して自明ではないことが明らかにされる。
 続く第2章。今のアメリカにおける修正第1条(表現の自由等を奪う法律を制定することを禁止)への信奉者は、人種差別主義的なパンフレットに対する最善の対応は、より多くの言論だ、と論じる。国家による抑圧の危険にさらされるよりも、「私たちの憎む思想」を寛容に扱ったほうがいい、というに等しいが、納得できはしない。
 第一に、私たちが憎悪する思想が争点なのではない。思想が争点とすれば、あたかも国が人の心の中に入り込むことを容認するかのようだが、争点となっているのは、その思想を公にすること、目に見える、そして半ば永久的に、共同体の中のある集団の成員が平等なシティズンシップに値しないことを告示することによって、個人と集団に及ぼされる危害なのである。アメリカでも、言論の自由は無条件に保護されてきたわけではなく、その絶対視は歴史的なものなのである。
 そして、第2に、争点となっているのは、修正第1条を専門とする法律家といった「私たち」が憎む思想を「私たち」が寛容に扱うことではない。人種差別主義のパンフレットや看板において非難され動物呼ばわりされる集団にとっての危害であり、「人種差別主義者が言うことを憎むが彼がそれを言う権利は死んでも守ると語るご立派な法律家」にとっての危害ではない。直接の標的となっている人々がそこで生活を送ることができるのか、子どもたちを育てることができるのか、彼ら彼女らは希望を維持し最悪の恐怖を払うことができるのか。これらが、ヘイト・スピーチを禁じる法律を退けるために修正第1条を用いるべきというときに答えられる必要がある問いなのだ、という第2章の締めくくりには大きくうなずく。

 しかし、規制する法律を支持する論拠を展開するのは、やはりそう簡単ではない。第3章で、ウォルドロンは、多くの国でヘイト・スピーチの代わりに用いられている「集団に対する(文書)名誉毀損」という概念を取り上げる。
 実はこの用語はかつてアメリカでもあった。この用語は、「ヘイト・スピーチ」という用語のせいで助長された単純すぎる理解を是正するのに役に立つ。集団に対する名誉毀損を阻止することは、思想を統制することではない。集団のある特徴を辱めること等により、集団の成員である個々人に不利益を課そうとする企みを阻止する、ということなのだ。集団の構成員である個々人は、その属性を誇りにしている場合もあるし、無関係でありたいと考えている場合もあろう。どうであれ、集団に対する名誉毀損はその成員である個人の尊厳と関連する。ウォルドンによれば、尊厳を攻撃するということは、彼ら彼女らの社会的地位を普通の市民以下に引き下ろし、その社会生活を困難にすることなのだ。

 尊厳への攻撃がもとらす危害について具体的に論じる第4章と第5章。第4章は、ジョン・ロールズの概念を借りながら、秩序あるリベラルな社会の根本には「安心」という公共財があり、ヘイト・スピーチはそれを掘り崩す、と指摘する。「秩序」といった用語が使われると、つい構える。それは自民党改憲草案が人権の制約原理として、憲法の人権相互の矛盾を調整するための公平の原理としての公共の福祉に代えようという「公の秩序」をつい連想してしまうからだ。ウォルドンが言う「秩序ある社会」とは、粗雑な全体主義な抑圧をもたらす概念ではなく、市民が信頼しあって正義の企てに力を合わせお互いに安心して生活する社会だ。そのような秩序が崩れた歴史は、ヨーロッパでもアメリカでもある(そしてここ日本でも)。ナチズムとホロコースト、奴隷制度、クークラックスクランなど人種差別主義的テロリズム…。ウォルドロンは、秩序ある社会という言葉を使って、抽象的にではなく、歴史からみても具体的な危険に緊急を要する議論をしたいのだ。ある集団の成員が実際に父母や祖父母が経験し時には命を奪われたほどの不正義の状況への回帰をほのめかされているという中で生活するのではなく、安心をもつ。公的な安心の安定供給のために、政府も各個人も、ヘイト・スピーチが社会の表面に現れないようにする責務を負う。
 よしと納得したいところだが、社会のマイノリティが被る危害とは何かは曖昧である。そうすると、やはり言論の自由を著しく制限する危険がある。第5章では、主観的な不快感と客観的な危害とは区別できる、そしてヘイト・スピーチを規制する立法の根拠は、不快感からの保護ではなく、尊厳からの保護に限定すべきだと論じられる。しかし、ウォルドロン自身、現実の事例では線引きが容易でないことを認める…。

 表現の自由の保障は、民主政の基礎、自己統治を守るためにある、と司法試験の勉強中にたたき込まれた身の上としては、第7章で取り上げられるロナルド・ドゥオーキンの議論は、なじむ。曰く、デモクラシーにおいて法律の制定が正統性を備えるためには、それに先だつ討論にはいかなる制約があってはならない、言論の規制は絶対に容認できない、どれほど憎悪に満ちたヘイト・スピーチであってもそれを規制したら、その立法は正統性を持ち得ない、というものだ。ウォルドロンは丁寧に反論する。マイノリティ集団の中にいる個人に屈辱的な攻撃のコストを引き受けるように要求する段階を私たちはとうに超えているのではないか。また、ヘイト・スピーチを規制する法律は人々を政治過程から排除するものではない。ヘイト・スピーチを行わずに規制に反対し討論することはできるのだから。
 ヘイト・スピーチ規制に多くのアメリカの法学者が反対なのは、政府の介入はつねに恣意的なものに陥る危険があるからだろう。確かに、多数派が自分たちの利益のために脆弱なマイノリティを脅かす立法を行うことなどは危険だ。しかし、ヘイト・スピーチを規制する法律は、それと反対。脆弱なマイノリティを憎悪と差別から保護されることを確実にするために、立法府の多数派が特段の配慮をするものなのだ。そして、規制する立法を設けた諸国では、多数派の利益を促進する道具にそれを変身させてはいない。いかなる表現でも全面的に保護されなければ、法律の正統性が致命的に損なわれるというわけではない。

 アメリカの憲法理論の正統派に挑戦する分厚い本著を読み通せば、民主政においてヘイト・スピーチを規制することは可能である、と悩み無くきっぱりと表明し、反対派を説得できる…と夢想したが、そんなに簡単ではない。ウォルドロン自身が、言論の自由と尊厳の保護とがいずれも重要な価値がありながら、相互に対立する可能性を認めている。しかし、表現の自由への規制はあってはならないという正統派も、本著を踏まえ、そう自信ありげなままではいられないはずだ。
 ここ日本でも、2013年東京・新大久保と大阪・鶴橋で、「二足歩行で歩くな、チョンコの分際で」「南京大虐殺じゃなくて、鶴橋大虐殺を実行しますよ!」などと拡声器でがなりたて、日章旗や旭日旗とともに「良い韓国人も悪い韓国人もどちらも殺せ」などとのプラカードを掲げて練り歩くヘイトデモが行われた。書き留めるのも辛い。人種差別解消法が成立施行された現在でもなお、ヘイト・スピーチは止まず、規制する法律は整備されていない(人種差別解消法の意義となお残る課題については、師岡康子監修、外国人人権法連絡会編著『Q&Aヘイトスピーチ解消法』現代人文社のご一読をお勧めする)。この日本にあって安全な立ち場にいるマジョリティの法律家が、表現の自由の価値をたたえるのみで、マイノリティの人々に憎悪にさらされることを甘受せよと暗に示唆するのも、知的に不誠実であろう。個人の尊厳を基礎に据え、マイノリティ集団の成員が安心して暮らせることの保証を公共財とするウォルドロンの議論は大いに参考になるはずだ。もっとも、他方で既に日本では表現の自由が既に易々と萎縮してもいて、優越的地位を強調しなくていけない情勢でもあり、悩ましい…。
 日本でも、ヘイト・スピーチ規制と表現の自由の両立は難しい問題だから放り出す、ということは今やできない。この問題を考えるにあたって、必読の書である。

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打越さく良

打越さく良(うちこし・さくら)

弁護士・第二東京弁護士会所属・日弁連両性の平等委員会委員日弁連家事法制委員会委

得意分野は離婚、DV、親子など家族の問題、セクシュアルハラスメント、少年事件、子どもの虐待など、女性、子どもの人権にかかわる分野。DV等の被害を受け苦しんできた方たちの痛みに共感しつつ、前向きな一歩を踏み出せるようにお役に立ちたい!と熱い。
趣味は、読書、ヨガ、食べ歩き。嵐では櫻井君担当と言いながら、にのと大野くんもいいと悩み……今はにの担当とカミングアウト(笑)。

著書 「Q&A DV事件の実務 相談から保護命令・離婚事件まで」日本加除出版、「よくわかる民法改正―選択的夫婦別姓&婚外子差別撤廃を求めて」共著 朝陽会、「今こそ変えよう!家族法~婚外子差別・選択的夫婦別姓を考える」共著 日本加除出版

さかきばら法律事務所 http://sakakibara-law.com/index.html 
GALGender and Law(GAL) http://genderlaw.jp/index.html 
WAN(http://wan.or.jp/)で「離婚ガイド」連載中。

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