「若い人がテレビを見なくなった」と言われるようになって、ずいぶん長い時間が経ちました。それに加えて、「若い人たちが恋愛ドラマを見なくなった」というのも、ずいぶん長い間言われ続けています。2年半ほど前になりますが、このラブピースクラブの連載でも、それを話題にしたことがあります。
(この回http://www.lovepiececlub.com/culture/gourmet/2014/04/07/entry_005076.html)
一部を抜粋すると、こんな感じ。
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若いオンナの子たちが、「自分の恋愛」というものに憧れを吹き込まなく(もっと正確に言えば「吹き込めなく」)なってしまったことは、この5~6年、なんとなくアタシも感じてはいたの。『テラスハウス』という、セミプロみたいな男女が一つ屋根の下で共同生活をするリアリティ番組が人気だけど、あれは「恋愛」に狙いを絞ってはいないし。「自己実現」がメインテーマになっていると思う。恋愛はあくまでも「自己実現」の一要素でしかない感じだわ。恋愛が若い子たちにとって「そのくらいでしかないもの」になったのは、いいことなのか悪いことなのか。それはわからないけれど――(引用終わり)
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こういう状況の中で、それでも恋愛ドラマで勝負するなら、よほどの「設定」が必要になるはず…。そう思っていたところに、この10月から始まった新ドラマ『逃げるは恥だが役に立つ』(TBS系)で、さらにいろいろ思いを馳せることになりました。
このドラマをざっくり説明すると、「この就職難の時代に、『求められる仕事がしたい』と願う20代の女性主人公・森山みくり(新垣結衣)が、『家事のプロ』として、出会って間もない30代男性・津崎平匡(星野源)の家に住み込みで就職をする。ただし、対外的には『結婚』という形で」というもの。なるほど、「自己実現」と「恋愛・結婚」を、こういう形でミックスさせたわけね。
実を言うと、このドラマの原作になった、同名の漫画作品のことは、1年前くらいに1巻だけ読んだことがあるの。というか、「1巻で読むのを切り上げてしまった」と言うのが正しいわね。で、記憶から抹消していたわ。というのも、作品の中にゲイキャラがひとり出てくるんだけど、その描き方が(漫画、すなわちファンタジーであることを差っ引いても)ちょっとひどいもんだったから。
コミックの第1話で、メインキャラのひとりである津崎に、会社の同僚のゲイがエレベーターの中で相当ハードなセクハラを仕掛けていることを匂わせる描写があるんだけどさ。会社勤めのゲイがそんなことするかっての。「職場恋愛ですら、ノンケのそれにくらべて異常なほどの色眼鏡で見られる。いわんやセクハラをや」ってことを、知らないゲイ(LGBTまで広げてもいいでしょう)の勤め人なんてひとりもいない、と断言できるわよ。アタシだって、会社勤めしていたとき、同じ会社の男性社員に指一本触れたことないわ。異性同性問わず、ねぎらいの肩ポンすらやってないからね。
で、そのゲイキャラが、1巻の最後で、他人の家の寝室を無断でのぞきやがった時点で、完全に挫折。「なんだろうね、この作者は。ゲイはさまざまな無礼失礼非礼を働くのがデフォだとでも思ってんだろうか」みたいに思っちゃったの。「こういうステレオタイプって、頑固な人は頑固よね。だから私も、会社でゲイ疑惑(疑惑って表現もたいがい失礼な話だけどさ)が持ち上がっても、とことん知らぬ存ぜぬを演じていたわけだけど」とも思ってしまったわけ。
ま、それはそれとして、「恋愛ではなく、自己実現の一手段としての結婚」というテーマは面白いと思ったので、ドラマも見てみたわけです。で、驚きました。プロデューサー陣か脚本家のどちらかに、こういうことに非常にクリアな考えを持っている人がいるね。確実にいる。私が最初に怒りを感じた「エレベーターシーン」はドラマでは描かれていませんでした。それ以上に「知ってる人が、いる」とはっきり感じたのは、ドラマ第2話の一場面にありました。
第2話で、このゲイキャラと男性の同僚が、主人公ふたりの住む部屋を訪問し、流れでお泊りするシーンがあります(原作1巻に収録)。男三人がリビングで川の字で寝るという状況で、津崎は、ゲイキャラの毒牙が同僚に向かないよう、間に入って寝るのですが、ここから、ドラマのオリジナルシークエンスが入ります。津崎の狸寝入りを「本当に寝入った」と判断した同僚が「なんでこっち来たんだろう(寝室で奥さんと寝ればいいのに)」と漏らすと、ゲイキャラがこう言います。
「俺が風見くん(同僚)によからぬことをするんじゃないかと心配になったんだよ。男と見れば誰彼かまわず襲うと思ってんだよ」
それを受けて同僚は「その気のない人を襲ったら、男女問わず犯罪ですよね」と返し、ゲイキャラも「いいよねえ。フツーに愛を育める人は」と笑う。それを聞いていた津崎は、「自分は、知らないうちに、どれだけの人をどれだけ傷つけてきたのか」と反省するのです。
ま、ゲイキャラが寝室をのぞくシーンはそのままでしたが、これは「このふたり、“本当に”夫婦なの?」という疑問を振りまくうえでは、どうにもこうにも外せない要素だしね…。ただ、超メジャーなマスコミのコンテンツにおいて、こういう「わかってる人による脚色」を確認できたのは、思わぬ収穫だったわ。
ドラマの本筋も、「恋愛より自己実現。恋愛があるとすれば、それは自己実現の一要素」というテーマが、主人公の森山みくりのセリフやモノローグに散りばめられている感じ。
「結婚がしたかったわけじゃないんです」
「網戸(を掃除したこと)に気づいてくれたとき、『もっと続けてほしかった』って言われたとき、うれしくなっちゃって。『これだ!』って思っちゃって。」
「誰かに、選んでほしい。『ここにいていいんだ』って、認めてほしい。それは、ぜいたくなんだろうか」
仕事が評価されること。もっと正確に言えば、自分が必要とされている任務だったり、「これはあなたがいちばん」とか「あなたにしかできないこと」と言われるような自分の持ち味が、きちんとした報酬(ぶっちゃければ、お金)になって返ってくること。それを主人公は渇望している。そして、その「渇望」は非常にシビアで、現代的な問題でもあると私は思います。新垣結衣およびキャストによる、エンディングのダンスが話題になっているようですが、むしろこの「渇望」の帰着点が、今の世の中ではどこにあるのかを知りたくて、たくさんの人たちがこのドラマを見ているのではないか、と思ったりしているわけです。
ま、ドラマは「ドリームの配給場所」でもあるので、そこは分けて考えて、楽しんで見ていきましょう。だいたい、「会って間もないふたりが、恋愛感情がないまま『契約結婚』に踏み切って、同居する」ということ自体、ドリーム中のドリームなわけで。そういう意味じゃ、星野源をもってきたのも絶妙すぎるわね。ほかのドラマで主役を張っているようなイケメン中のイケメンが、このドラマの主役をやっていたら、設定自体が破綻しちゃうわ。だって、そういう、超がつくイケメンたちって、「穏やかな日常生活」に配置するにはあまりにも味が濃すぎるのよ。星野源の、「胃が持たれない感じの、薄味顔の草食系ビジュアルなのに、よく見るとセクシー(顔もそうなのですが、声と手のセクシー具合に関しては、ほかのドラマのイケメン俳優たちをはるかに凌駕します)」って、針の穴を通すようなキャスティング。その眼力も含め、プロデューサー陣は辣腕よ。