今宵は1940年代、エジプトの映画、音楽の黄金期といわれる時代に一世風靡しこの世を去ったアラブ歌謡の美しき女性歌手、アスマハーンAsmahanに想いを馳せる。
ほりの深い均整のとれた艶やかな容姿に、どことなくかげりを感じさせる瞳。そのまなざしは、波乱万丈なアスマハーンの26年間の人生を凝縮するかのような重さに満ちている。
生年は1917年とされているがそうではないという説もある。本名はアラビア語で希望という意味をもつというアマル・アル・アトラーシュ。現シリア南端の山岳地帯で部族の首長である父親のもと、このシリアの山間地帯で幼年を過ごす。フランスの支配、侵攻に抵抗する父を残し、母親と子供たちは流浪しながらもエジプトへ向かう。母親は部族長の妻の立場から一転、子供たちを抱え、生活のために生まれ持った歌声を、エジプトの裕福な家庭で披露し湖口を稼ぐ日々となる。母から歌の手ほどきを受けたアマルは、10代になるとその母と、後に多彩な音楽家として有名となる兄(ファリード・アル・アトラーシュ)とともにステージに上がりはじめ、その美貌と10代とは思えぬほどの歌声に、エジプト音楽業界の人々から一目おかれるようになっていく。
1930年代に入り、カイロでスター歌手としての成功が訪れはじめたアスマハーンのもとに、故郷より部族のアトラーシュ一族の血を引くという男が彼女を見染め婚姻を求める。アスマハーンは男に、一族の本拠地ではなくダマスカスでの生活、冬はカイロで過ごすこと、そしてヒジャブをつけないことを認めるという条件のもとにこの結婚を選択し歌の世界から引退する。だが自らの類いまれなる歌声と美貌をもって、カイロのショービジネスの世界へ一歩足を踏み入れたアスマハーンには、この結婚が耐えられるものではなく、ほどなくして娘を母に託し再びカイロへもどり、夫のもとへは帰らなかった。
「Intisar al Shabab(若き日の勝利)」、「Gharam wa Intikam(情熱と復讐)」という2本の映画に主演し、数々のアラブ歌謡曲をレコーディングし、その人気は当時アスマハーンのライバルとも言われたウム・クルスーム(アラブ歌謡界の美空ひばり、いやひばりなんか目じゃないほどの国民的女性歌手)とともに、エジプトをはじめとするアラブ圏でのトップスターとなったアスマハーン。
その人気絶頂の最中である1944年、彼女をのせた自動車がリゾート地へ向かう途中、川に水没した。26歳という若さでアスマハーンの人生は幕を閉じた。
2015年山形ドキュメンタリー映画祭で上映された『アスマハーンの耐えられない存在感』The Unbearable Presence of Asmahanは、いまなお、エジプトをはじめとするアラブ系の人々にとってアスマハーンが伝説の人にとどまらないほどの人気を得ていることを考察するドキュメンタリーだった。ことエジプトで歌手を夢見る若い女性が、アスマハーンに憧れるその一片には、アスマハーンの自らの意志で人生を選択していく強さにたいする憧憬が大きいのではなかろうか。
『アラブの花/伝説の歌姫 録音集』ASMAHAN/DOUBLE BESTには、CD2枚組で全24曲のアスマハーンの歌声が網羅されている。こぶしをたっぷりと効かせた伝統的なアラブ歌謡から、西欧のクラシック音楽からの影響が感じられるおもむきの楽曲まで、アスマハーンの多様性に満ちた歌の数々が堪能できる。
『アスマハーンの耐えられない存在感』ではアスマハーンの西洋と東洋の狭間での葛藤といった向きで「ウィーンの愉快な夜」という曲をめぐり、ドイツに住むアラブ系移民からいまなお愛されるアスマハーンの実像に迫るが、1940年代のエジプト・カイロでの華々しいショウビジネス界においては、やはりフランスやドイツという帝国の生み出す西洋文化は、東洋(アラブ)音楽とは異なる魅惑的なものと感じたのではないだろうか。
ときに自由奔放な生涯とされるアスマハーンだが、血族にしばられ、結婚後はシリアとカイロの往復を重ねた故か、後年は英国の諜報部から目をつけられ国家間の闇の部分に巻き込まれてしまう。自らの欲望に正直に立ち向かい生きたアスマハーンがかもしだす影は、自由奔放ということばよりはるかに大きな選択の重さを感じずにはいられない。そのいきざまをしかと受け止めたかのような緑の瞳から投げ出される視線は‘オリエンタリズム’に照らし出された儚いアラブの花の存在としていまなお、アラブの多くの人々を魅了してやまないのだとおもう。
※参考文献
『アスマハーン/アラブの花―伝説の歌姫~録音集』国内盤解説書(及川景子著)
『俗楽礼賛』中村とうよう著
https://www.youtube.com/watch?v=Onzg6mGO4ts