北アフリカのサハラ砂漠、駱駝に乗った少数民族が砂塵の中を行く写真に、はるか遠くの異国の浪漫を多少なりとも抱きつつ、手に取った西サハラの女性歌手マリエム・ハッサンMARIEM HASSANの音楽。しかしマリエム・ハッサンの歌は、いまもなお政治的に混迷の最中にある西サハラの窮状を世界中へ知らせるべく、サハラウェイ(西サハラの人々)たちの思いを背負った覚悟を携えた魂の歌であり、独立国家を希求する民族の抵抗の歌であり、土地を奪われた者たちの望郷の歌でもある。
1884年から1975年まで西サハラはスペインの植民地だった。1975年この西サハラからスペインが撤退し西サハラは北部をモロッコに南部をモーリタニアにと分割された。隣国である両国の軍に侵攻された西サハラの多くの住民たちはもう一つの隣国アルジェリアに移り難民としてキャンプ地生活を余儀なくされる。
スペイン領サハラの地で生まれたマリエム・ハッサンは、17歳でアルジェリアの難民キャンプに移り、25年以上にも渡りこの難民キャンプで暮らしたという。西サハラ独立を目的としたポリサリオ戦線のための音楽グループで活動をはじめたマリエム・ハッサンはその後、スペインに拠点を移して本格的な音楽活動を開始する。
2002年ソロアルバム『サハラ、女たちの唄』を発表し、2004年『メデフ~サハラ』、2005年『デセオス~願い』、2010年『棘』、2012年『エル・アイウンは燃えている』をリリース。
エレキギター、太鼓のリズムに乗ってこぶしを効かせたマリエム・ハッサンの歌謡は、地の底から滲みだす強靭な意志のエモーションと、弾圧からの解放を祈るかのような多くの歌において、聴く者の琴線を揺さぶらずにおれないと同時に「踊る」という人間の本能的なエネルギーを湧き立たせる。難民キャンプ地でのサハラウェイの女性たちの伝統や暮らしを歌うマリエム・ハッサン。サックスの奏でる音が、哀愁を帯びたディアスポラの哀しみをうつしだす曲を交えながらも、スペインから世界の国々へ届けられるCDやYou tubeからの音源や映像には、サハラ砂漠という土地からでなければ醸し出されない黄色い砂が混じり込んだ苦みの効いたブルースに、浪漫ではなく現実の西サハラを見据えた緊張感を受け取るとともに、言霊が最果ての地へと陶酔しながら湧き出すようなエネルギーを感じる。
2015年8月、マリエム・ハッサンは長い闘病の末に亡くなった。今年2月にマリエム・ハッサン&パデェア・ミント・エル・ハネビ名義で『サハラよ、踊れ!~マリエム・ハッサンは永遠に』というアルバムがリリースされた。パディア・ミントは、マリエム・ハッサンと音楽活動を共にし、ステージでは太鼓と踊りを担当していた女性である。ぽっちゃりとかわいらいい外見のパディアは、凛としてオーラを発するマリエム・ハッサンの傍らで、ステージ上でマリエムの放つ緊張感をほんのりととぎほぐすような和みをもたらしていた。
西サハラはサハラ・アラブ民主国共和国として国家を立ち上げ、AU(アフリカ連合)からは西サハラは独立国として認められながらも、その独立を承認しなかったモロッコはAUを脱退。現在はモロッコが西サハラを領地としている。『サハラよ、踊れ!』はそんな膠着状態が長年つづくなかで、“踊り、歌う”ことをもって抵抗してきたマリエム・ハッサンの意志を受け継いでいくアルバムとなっている。モロッコと親交のある先進国の顔色を窺っているのだろうか、国連もまたこの西サハラの独立を認めていない。先進国のなかには日本も加わっている。
マリエム・ハッサンの後をつなぐように同じ西サハラのアジザ・ブラヒムAZIZA BRAHIMは1976年、西サハラの難民キャンプ地であるアルジェリアの西端ティンドゥフで生まれた。2000年バルセロナに移り世界を視座にいれた音楽活動開始。喉を奮わせ奏でる甲高い裏声(ヨーヨー)を交えたアジザ・ブラヒムの歌謡は、洗練されたワールド・ミュージックとして居心地よく沁み渡る。
2016年3月にリリースされた『ハマダを超えて』では「平和を探して」、「インティファーダ」などの全10曲が収録されているが、直截なプロテストソングではない反面、サハラの砂が眼に染み入るような情緒的なメロディに、ディアスポラの民の望郷の思いを映し出す。
Afrikafestival Hertme 2010 - Mariem Hassan part 1
Aziza Brahim - Calles de Dajla