女子校本好きは止まらない
女ともだち好きのルーツは、すきあらば私に話をさせてくれと思いつつ、なかなかすきなどないお喋りな3姉妹の末っ子として育ったことか。あるいは、卒業後ん十年たった後再会しても昨日まで一緒に登校していたときと同様のテンションで同様にわれ先にと話し出す女子高仲間たちのおかげか。あのときのテンションが愛おしくも懐かしく、女子高生たちが他に通行人がいることなど気にせず横に並んで歩いてたり、電車内で笑い転げていたりすると、ついにんまりふらふら~とついていきたくなるくらい(私がオジサンだったら怪しい。よかったオバサンで)。
女子校好きが治らず、『女子校育ち』(辛酸なめ子、ちくまプリマー新書)、『女子校力』(杉浦由美子、PHP新書)、『女子校ルール』(女子校ルール研究会、中経出版)、『女子校育ちはなおらない』(辛酸なめ子他、KADOKAWA/メディアファクトリー)などなどの女子校関連本をすぐ手に取っていまう。「うちの高校はもっとたくましかった!」などとケチをつけつつも、「あるある」ネタ(暑いときにスカートをバタバタさせる、男性教師をイジり倒す、等)にニタニタしたくて読むのを止められない。関連本が続々出てくるのは、私のように「女ともだちとのあの楽しすぎた日々!」を懐かしむ層がマーケットとなるくらいに一定数いるということだろう。あ、男子校もあるある本があるのだろうか?なさそう(決めつけ)。
この前取り上げた『君に届け』は共学校を舞台にしつつ、恋バナ以外に「一見つるみそうもない」女ともだちとディープな友情を築いていくこともテーマ。共学校でも女ともだちとの関係をしっかり築けるのだろう。でも、女子校育ちの偏見から、上記女子校関連本のどれもが自虐ネタを展開するふりをしながらも誇らしくも自慢げに謳うように、女だらけで、男に遠慮したりしない空間にいると、自立心が発揮しやすく、個性も伸びていくにはいいいところだった(「国立なのに別学でいいのかっ」「トランスジェンダーに配慮しているのか」などとお叱りを受けるのは辛いが)。
思春期の女友だち
女子校関連本も思春期の女ともだちを扱っているようだが、もうすっかり大人になってしまい、もはや過去になった「そのとき」を懐かしんでいる世代の追憶。
『ラウンダバウト』1巻~3巻(渡辺ペコ、集英社)は、中学2年生、中二病といわれがちだがそんな言葉ではくくれない多感な時期を生きる子どもたちの、ほんのちょっとした、だけれどもその本人にとっては胸に迫るような瞬間瞬間を見事に描き出す作品。共学が舞台で、恋ともまだいえないような異性を大切に想う気持ちも鮮やかに描かれているが、女の子たちが互いにぶつかったり、期待したり、お互いを認め合ったりする過程がとてもとても愛おしい。
一応の主人公の真は、友だちにぎょっとされる「おわん」のような髪型になっても全く気にしない(むしろ気に入っている)、マイナーな漫画家にはまっている、我が道を行く子。意味ないとわかっている創作ダンスでも皆を仕切ってしまい、「カリカリ」していると自己嫌悪に陥る英子ちゃんは素直にありがとうやごめんが言えないけれど、真とニコッと「また明日ね」と言い合えると小躍りできる気持ちになる(第2話)。男子も女子も先生も嫌い、いつまでたっても学校に馴染めない自分も嫌いな不登校の水上さんは、担任の先生や真と話をしながら、外へ行くようになったり、踊ってみたりする(第3話、第4話)。
行動も感性も何も違う。わかってほしいのにわかってもらないときもあるし、イラッとするときもある。でも、「不登校だ」「ひとり親だ」etc.で自分や他人をくくらず、お互いと出会うことって素敵。期待したり、ぶつかったり、そしてお互いを認め合ったりする。漫画の線が雑なようで、でもだから子どもたちの落ちこみや、嬉しさなどの感情の動きをくっきりと描き出せているような気もする、秀作だ。
『さよなら、ガールフレンド』(高野雀、祥伝社)の表題作は、女子高生と卒業生、若干『ラウンダバウト』より年上のガールミーツガールもの。「セミと緑がうるさい」駅で、女子高校生が観光客の老夫婦から「ここはいいわねえのんびりしてて」と話しかけられ、「のんびりに見えるのはあんたが休みだからだろ」と内心思う冒頭のシーンが暗示するように、退屈な日常にうんざりし、男のバカさに呆れ、傷つけられる女の子たちのストーリーだ。孤独や痛みに大騒ぎするほどナイーブではない。何かを求めているけど充たされないと声高に言うには、醒め過ぎている。でも、ときには、カレとやった「ビッチ先輩」のような思いがけない女同士で、ふと大切な時間を共有することもある。強い絆、連帯というほどのものではない、かすかなシスターフッドに涙する。
アラサー以上の女ともだち
さて数十歳上のアラサー以上の女ともだち本になると、「結婚してない・している」「子どもがいる・いない」「仕事をしている・していない」等の違いを意識して気遣いあったり、共に「傷」をなめあったり、という色合いが強くなる。私たち、現実にまだまだそんなに気遣っているかしら(私が鈍感なだけか?)。
タイトルにずばり友情を掲げる『女の友情と筋肉』(1、2巻 KANA、星海社コミックス)は、「身長195cm握力97kg、身長189m100m走10秒8、身長186cmソフトボール投げ85mのちょっびり?マッスルだけどとっても優しい女の子たち」が繰り広げる「キュートでファイトなマンガ」(裏表紙の謳い文句)なのだが、マッスルなアラサー女子3人が集まって語り合うのは、仕事の愚痴、そしてカレが結婚を言い出さないことの寂しさ。「女なのに」マッスルということで笑いを取ろうとしているが、「結婚を切り出すのは女でなく男であるべし」等案外古風な男女観がベースになっていて、今ひとつ、切り口が単調な気がしてならない。
『結婚しなくていいですか。すーちゃんの明日』(益田ミリ、幻冬舎文庫)のすーちゃんとさわ子ちゃんはさらに上のアラフォー世代。どちらも、頭の中は、結婚していないこと、結婚しないまま一人老いていくことへの不安、しかし結婚した男やつき合おうとする男のくだらなさへの嫌悪感などでいっぱい。ほのぼのしたシンプルな線での絵柄にそぐわない、様々な葛藤が綴られていく。結婚して妊娠した友だちにおなかの赤ちゃんについての質問ばかりして(そうでないと失礼かと思い)疲れてしまうすーちゃん。一方その友だちは友だちで、「気をつかわせてしまったかな」と案じている。そして、出産を楽しみにしつつも、仕事を辞めて単なる無職の妊婦になってしまったことを後悔してもいる友だちは、まだ選択が可能なすーちゃんに、過去の自分を投影してもいる。女たちは、細やかに配慮しすぎているのかもしれない。好きなように話しても、つながれるはず。
光浦靖子さんと大久保佳代子さんの『不細工な友情』(幻冬舎文庫、2008年)のリレーエッセイも、「女ともだち」ジャンルにいれたい一冊だ。幼馴染で、相方で、恋敵でもあった(後者はちょっとつくってないか~面白くするために、という気もするが)ふたりは、むしろ気遣いなど全くせず(しているそぶりをみせず、なのかもしれない)、辛辣な皮肉を浴びせ、強引なバトンタッチを繰り返し合う。男がいない、男がほしいと叫び、男がいないねと相方に声をかけ続けるも、それはもうネタ。自虐も他虐もてんこ盛りだけど、イタすぎない。「長年連れ添った夫婦のような、不細工ならぬ無細工な友情を感じる」と清水みちこさんは解説で書くけれど、やっぱり夫婦でこのやりとりは危険かも。離婚事件で扱う弁護士として男女間だと辛辣なやりとりはそのまんまモラハラに傾きやすいような気がしてしまう。女ともだち間では、表面的には辛辣なやりとりをしていても、その根底には愛情と信頼があるってことを疑わない私は、楽観的なのだろうか。
女ともだち、フォーエバー
北原みのりさんの『メロスのようには走らない。~女の友情論~』(ベストセラーズ)によると、トークショーの際に、上野千鶴子さんが「私たちの若い頃は、女の間に友情が成立するか、ということが真面目に議論されていました」と語ったとか!たかだか40年ほど前に!女は計算ずくで打算的、ばらばらでいれば「毒婦」と叩かれる。そういえば週刊誌で「毒婦」とののしられた木嶋佳苗氏は、女性週刊誌に送った手記の中で「女友だちをつくる時間も、つくる気もありませんでした」と書いていたとか。ええっ。男の称賛やセックスだけが、自分を支えるものになっていたら、孤独でたまらないな。
そういえば、「女友だち少ないんだよね」と自慢げにいう女がいるような気がする(幸い、親しい女たちにはいないですけどね)。「男がいなくてね」は自虐ネタになるのに女ともだちが少ないのは自慢ネタになるのはどうしてか。女が自分も女であるのに女を見下すよう、仕向けられてきたのかも?
女子校育ちで免疫がついたのか、全くそんな空気?圧力?を知らず、大好きな女友たちに恵まれて、ちょー幸せ。
これからも、女ともだちとつきあうし、女ともだち本もたくさん読もうっと!