映画「チョコレートドーナツ」のラスト近く、主演アラン・カミングが熱唱した曲はボブ・ディランの「アイ・シャル・ビー・リリースト」I Shall Be Releasedだった。これまでいくどかの壁にぶちあたったとき何度も何度も聞いてきた曲。世界中の多くの歌い手たちがカバーした曲。私がもっとも多く聞いてきたのはトム・ロビンソンの歌ったものだった。トム・ロビンソンは70年代イギリスのパンクシーンで一世を風靡したミュージシャンで“Glad To Be Gay”という曲を携え自らゲイであることをカミング・アウトした。「チョコレート・ドーナツ」を観た後、この「アイ・シャル・ビー・リリースト」という曲がまた私の脳裏を駆け巡り始めた。
家に着いて真っ先に聞いた「アイ・シャル・ビー・リリースト」。でもいまはトム・ロビンソンのものではなく、ニーナ・シモンNina Simoneの歌う「アイ・シャル・ビー・リリースト」を聞き入った。〈人はみな守られる権利がある、人はみな堕ちていく、わたしはこの壁の向こうに自分の姿が見える〉、1960年代、黒人たちによる公民権運動に積極的にかかわり活動したニーナ・シモンにとってこの曲は歌われるべくして歌われた一曲であろう。
ニーナ・シモンは1933年、ノースカロナイナ州トライオンという小さな町で生まれた。工場勤めのブルーカラーの父親と牧師の資格を持つ敬虔なクリスチャンの母親。4歳からピアノを習い少女時代から教会で伴奏をし、その音楽的才能は神童として大切に育まれジュリアード音楽院に進学し世界初の黒人女性のクラシック・ピアニストを目指す。その後進学希望していたカーティス音楽院に合格できず、夢が途絶えたニーナはアトランティック・シティの小さなクラブで歌い始める。ニーナ・シモンは当時彼女がお気に入りだった女優シモーヌ・シニョレからもじった芸名で、クラブでニーナが演奏するジャズをはじめとするポピュラーソングを悪魔の音楽と嫌悪していた母親にばれないようつけたという。
〈私は“ジャズというものを歌う歌手”と分類されることになった。“ジャズ”とは考え方生き方のことだった。あるいは歩き方、話し方、行動のとり方など、アメリカの黒人すべてを意味した。〉としながらも、ニューヨークのグリニッジ・ビレッジを拠点とした際に出会ったフォーク音楽にも多大なる刺激を受け〈私はジャス歌手というよりは、どちらかと言うと、フォーク歌手だと思う〉とも自ら語っている。
ニーナと名乗る以前の少女時代、町で彼女の音楽助成基金があつめられた。町で恒例となった定期演奏会で十一歳のニーナは最前列の席で、見たこともない白人一家に自分の両親が追い立てられ、なすがされるままの光景を目撃し、〈私の演奏が聞きたいのなら私の家族を最前列に座らせ、私にいつでもその姿が見れるようにしてほしい〉と言い放ち困惑する両親を最前列に戻した。彼女を指さしで笑う白人もいた。その出来事を機に〈突然、世界はその姿をまったく変えてしまい、もう何も見逃すことができなくなった〉という。
自らの才能に圧倒的な自身を持ち、その才能に甘んじることなく練習を重ねて更なる高みを目指し、黒い肌に対する差別に立ち向かうべく学び闘う生き様は、公民権運動の終焉と黒人歌手への搾取が平然となされるアメリカの音楽業界への見限りと重なり、ニーナはアフリカへ向かう。
「フォー・ウィメン」Four Womenというニーナの歌が大好きだ。〈この歌に出てくる女たちは薄い褐色から濃い褐色まで、肌の色が少しずつ違う黒人である。彼女たちの美の観念や自意識はそれぞれの肌の色に深く根付いている。この歌はアメリカの黒人女性が自分の顔や髪について思うとき、たとえばストレート・ヘアーか、クリクリのカールか、あるいは自然のままにするのかによって、どういう心情になるかを訴えたものだった。当時の黒人女性は自分が本当にどうしたいと思っているのか、まだわかっていなかった。自分ではどうにもならないことで決めつけられるばかりだった。自分で決める自信を持たない限り、彼女たちは昔ながらの決めつけに従うほかはない。〉とニーナはこの曲について語っている。
公民権運動の仲間も散り散りになり、アフリカで得た恋人とも別れざるをえなくなり、音楽業界からの搾取から身を守るため自分でマネジメントをもしながら音楽活動の道を再度切り開いていったニーナ・シモン。ステージで、歌声で、なにも怯むことなく凛としたニーナが犠牲を払っていた自分自身のプライベートを振り返るとき、彼女の脆弱な一面を垣間見る。愛情と性愛を求め続け、その欲望に対しても自由でありつづけたニーナは、つまずきすらも人生の1ページとして2003年の死にいたるまでエモーショナルに生きた。
※参照図書:「ニーナ・シモン自伝 ひとりぼっちの闘い」N・シモン、S・クリアリー