結婚前夜と言えば、ドラえもんの『のび太の結婚前夜』だ。泣ける話である。
一方、父にとって結婚前夜と言えばさだまさしの『秋桜』らしい。
「あれはなぁ、嫁ぐ前日の母と娘を歌った名曲なんだよ」と結婚前夜でも何でもない日に妙に感動した様子で私に語って聞かせたことがあったが、母は隣で「そうかしら?」と言っていた。作詞も作曲もさだまさしなのだから、父が共感するわけである。
しかし、実際の結婚前夜は何の感慨も無く過ぎていった。
まだ山田仕郎と共に住み始める日が決まっていないからである。物件は決まっていたが、内装は手付かず。もちろん、家具をどうするかも考えてすらいない。
新居のマンションは驚くほどアッサリ決まった。恵美子さんが、マンションの郵便受けに入っていた不動産会社のチラシを見て内覧に行き、その後母と私も含めた三人で一回見に行っただけで決定である。決まったのは、結婚式の印刷物関係の締め切りギリギリで、『新住所:未定』と刷られることだけは回避できた。
ただ、「リフォームをしないとダメだ」と強硬に主張する母と恵美子さんによって、物件が決まっただけで終わっていた。リフォームをすることは決まっていても、リフォーム業者は決まっていないのである。
山田仕郎の口座から手付金は支払われたが、残代金決済は済んでいないので物件の引き渡しはまだまだ先である。山田仕郎との同居開始はいつになるのかさっぱり見当もつかなかった。
というわけで、明日は式場に出かけ、これまで準備してきた様々ことの発表会のように結婚式を催し、山田仕郎とホテルに一泊して、そのままこの家に帰ってくる。
何の感慨も無くて当たり前だった。
しかし、初夜はある。
初夜は、どうなるんだろう?
ホテルウェディングやレストランウェディング、リゾート、専門式場、ゲストハウス、と様々なスタイルがある中で我々はレストランウェディングを選んだ。
ホテルなら式を挙げたホテルにそのまま宿泊するのが普通だろうが、レストランには泊まれない。どうするのかなぁとぼんやり思っていたら、それまで結婚式全般にあまり積極的ではなかった山田仕郎にしては奇妙なことに、ホテルだけは自分で探していつの間にか決めてきた。相談が無かったな、と一瞬思ったが、そもそも自発的な行動をとること自体が珍しい。文句は言わず、その時はお礼だけ言っておいた。
自発的に一流ホテルのスイートを予約してくるというのは、つまり、それなりにやる気があります、ということなんだろうか。やる気があります、ということなんだろうな。そうとしか思えない。
私だってそれなりにやる気がある。なんてったって、コンディションは最高なのである。
数十万円や百何十万円、という桁ばかりの見積書に最初から組み込まれていたブライダルエステによって、脱毛から痩身まで「花嫁をとびきり輝かせるための」プランが完璧に整えられていた。「花嫁を輝かせる」というフレーズは、その前に「お金をかけて」という文言が省略されているのだけれど、「一生に一度だから」とか「映像に残るから」とか、お金をかけることに対して正当化する為の文言が更に付け加えられていた。
一生に一度かどうかは誰もわからないし、映像を残したところでせいぜいその年の年賀状に使われるくらいだ。
見積書のお蔭で結婚式は明朗会計である。
普段エステを使ったことのない人間からしたら二度見するレベルの金額を眺めた時、でも、私の目的は結婚式を挙げることだしな、と何となく思った。
マミーポコの結婚式で、あのロマンティックな式のブーケトスでブロッコリーを掴み、何億光年の隔たりを感じたあの果てしない遠さを、自分で稼いだお金の力で縮めるのである。
お金と時間をかけた私は、結婚前夜、スイートルームに適切な状態であった。
ムダ毛が消えうせた腕を眺めながら、一泊分の荷物を旅行用のボストンバッグに詰め込んだ。
結婚式に新婦が自分で持って行く荷物はそんなに多くない。
そんなに、というか、ストッキングくらいだった。
「パンティストッキングはダメ。太もも丈のガーターレスストッキングにしなさい。ガーターベルトがいらない、内側がシリコンになっているものがあるから、それを用意して。面倒だからって普段のパンストを持ってきちゃ駄目よ。いいわね? 日本製のでも外国製のでもいいけど、高いやつ買いなさいよ。自分の為なんだから!」
事前に何度か打ち合わせをしたヘアメイクの担当、安藤さんは、最後の打ち合わせの時にそう念を押した。当日の私を仕上げてくれるのは彼女である。ドレスを決めて以降のことは全て彼女と決めた。
「どうしてパンティストッキングじゃダメなんですか?」
「トイレに行くときに伝線しちゃうかも知れないからよ」
「なるほど。リスク回避ですね」
私が大真面目にメモを取っている様子を安藤さんは笑いながら眺め、「ちゃんと予備も持ってくるのよ」と言った。
「ミナトちゃんの業界で、そういうの何て言うんだっけ?」
「ヘッジをかける、ですね!」
破れるリスクに備え、2足用意した未開封のガーターレスストッキングを今こうして眺めながら、果たしてこのストッキングは初夜に大活躍するのだろうか?と思った。セルライトの消えた脚にガーターレスストッキングはとても良い感じだろう。大いに期待できそうだった。
初夜に大活躍しそうなアイテムは他にも色々あって、ドレス用のビスチェも相当に可愛かった。ビスチェは白、他も全部白。色はもちろんのこと、新品を当日におろすのだから、もう滅茶苦茶にクリーンなイメージである。
私はとっくの昔に処女ではなくなっていたが、だからこそ、どんな初夜が来ても対応できる。
経験と、お金をかけただけの武器。私は無敵だ、と全然モノが詰まっていないボストンバックを見つめながら思った。