世間のカップルは、一般的に、どこで婚姻届を書くのだろう。
かつてゼクシィが突然現れた時のように、ダイニングテーブルの上に突然現れた白地の婚姻届を見つけて、ふと浮かんだ疑問だった。
私は仕事から帰宅したところで、今から夕食だった。箸と箸置き、その横に積まれたゼクシィ、そして、ペラッとした婚姻届。高校生の時、家庭科の授業で教材として配られた時に見たことがある。あの時は藁半紙に刷られた複製だったが、これは本物だ。
ちなみにゼクシィは几帳面な母によって毎日夕食前に地下室から運び出され、私の食事場所の横に積まれ、食事が終わると私が地下室に片付ける。地下室で夜を明かしたゼクシィは、日中は母によって熟読され、そして私が帰宅すると食卓の上に再び置かれる。
新しい号の付録に婚姻届がついてきたのかと思ったら、そういうわけではなく、母が恵美子さんと相談して入籍する日を決め、役所で婚姻届を貰って来たのだった。
高校生の時に家庭科の授業で学習したから私は知っている。婚姻届は、妻になる人、夫になる人、それに証人二人の計四人が署名捺印をしなければ完成しない。
『入籍は、いい夫婦の日の語呂合わせで11月22日とする』
『山田仕郎サイドの証人は恵美子さんが、こちら側の証人は父が署名する』
この二つが決定事項だった。
「戸籍謄本が必要ですよね?」
以前、ゼクシィをパラパラめくって得た知識を思い出しながらそう母に尋ねると、母の顔に「何を言っているのだこの子は」という表情が浮かんだ。
「ミナトちゃん、本籍地は千代田区でしょ。千代田区役所に提出に行くんだから、ミナトちゃんは謄本不要よ。ママ、全部調べたんだから」
「そうなんですか」
色んな意味で『そうなんですか』だ。
「それで、恵美子さんが、新しい本籍地は今のミナトちゃんの本籍地にして下さい、ですって。よかったわね」
「ん?」
よくわからない。今の私の本籍地は、父方の祖父の住所だ。同居していたわけでもないのに何故か父と母の本籍地は祖父の住所で、私は深く考えずに今まで来てしまった。運転免許証の本籍地の欄もいつの間にか空欄だし、気にする機会がない。
けれど、新しい本籍地が妻の祖父の住所になるのって何か奇妙だ。
「恵美子さんの意向なんですか? それとも仕郎さんの考えなんですか?」
「知らないわよ。ともかく、パパに署名して貰ったらすぐ恵美子さんのところに送ることになってるから、汚さないようにするのよ」
私は言われるがままに婚姻届を横に置き、一番上のゼクシィを逆に置き、二番目に積まれていたゼクシィの上に婚姻届を置き直してその上に再びゼクシィを重ねた。これだけ分厚い冊子に挟めば安心だろう。
父はまだ帰ってきていない。
「証人の件は、私からお願いしますので」
「あら、パパにはもう言っちゃったわよ~」
母は歌うように返事をし、キッチンに戻って行った。上機嫌なのであった。
11月22日は平日で、私は午後だけ有給休暇を取得した。
通常、銀行では4月と10月の期初に「有給休暇取得予定表」というタイトルの厚紙が回覧され、偉い人から順に半年分の有給休暇取得予定日を決める。漢字だらけの重々しいタイトルに反して、ファンシーなキャラクター(ウサギやネズミなど)が優しいパステルカラーで描かれた不思議な厚紙だ。
当然のことながら、11月22日は申告していない日だったが、課長は「ハハ、えらい突然だなぁ」と笑いながら承認してくれた。「俺てっきり、結婚式の前日か翌日にでも出しに行くのかと思ってたよ」とも。
「私もそんな感じだろうと思っていました」と言うと、全く意に介さない様子で「ハハハ」と笑われた。
11月22日。
山田仕郎は待ち合わせ場所のチェーン店の喫茶店に先に来て、奥の席に座っていた。セルフサービスのチェーン店なので、案内などいない。店内を見回すと、店の奥の方に山田仕郎の後頭部が見えた。入り口から見えやすい方に座る、という発想は無いようだった。
「待ちました?」
そう声をかけると、「今日は宜しくお願いします」と噛み合わない返事が返ってきた。
恵美子さんの署名が追加された婚姻届は製薬会社の名前が入ったクリアファイルに入れられ、テーブルの上に置かれている。
「もう記入しました?」
手を伸ばしてファイルの中を確認すると、山田仕郎の戸籍謄本も入っていた。本籍地は関西だ。
「仕郎さん、本籍、関西なんですね」
「父が関西出身なもので。戸籍関係の書類は取り寄せるのが手間で面倒なんですよ」
私の手元を凝視しながら山田仕郎は「わずらわしい」と忌々しげに言い放った。
「へぇ」見慣れない関西の住所を眺めながら「戸籍謄本の取り寄せは仕郎さんがご自身でなさったんですか?」と尋ねると、「いや」と口ごもった。取り寄せたのは、恐らく、恵美子さんだ。
それなら山田仕郎は特に煩わしさも手間も感じていない筈で、それなのにそんなに感情を込めて言えるということは、取り寄せた本人の愚痴を恐山のイタコのように憑依させて呟いているのだろう。
こちらの証人は父で、あちらの証人は恵美子さんということに妙なものを感じていたけれど、もしかしたら山田仕郎の父親である山田三郎氏は本日息子が婚姻届を提出することさえ知らされていないかも知れない。以前食卓を共にした時の恵美子さんやお嬢さんの冷ややかな態度や静まり返った食事風景を思い出して、そう思った。
そして、婚姻届の「夫になる人」の欄は空欄だった。
「まだ書いてないんですね?」
なんかさっきもこんなようなことを言ったな、と思い出しながら尋ねると、怪訝な顔をした後ムッとした様子だ。
「書いてません」
「私が先に書いた方が良い感じですかね」
黙っている。
私は鞄からパーカーのボールペンを取り出した。普段、契約を取る時に使っているものだ。「妻になる人」の欄に氏名を記入し、生年月日を記入し、住民票のある住所、本籍、とサラサラと埋めていった。保険の契約書よりも証券口座の口座開設申込書よりも簡単な書類だった。「婚姻後の夫婦の氏」という欄は何となくチェックを入れずに飛ばしたが、自分が書ける箇所を全て埋めてしまった後で「夫の氏」にチェックを入れた。
5分もかからずに書類を埋めてしまうと、私は持って来た朱肉と印鑑マットを使ってギュッと実印を押した。印鑑の先をティッシュで拭っていると、山田仕郎が「私はここでは書きません」と妙にキッパリした口調で呟いた。
「はぁ」
「部屋の用意はないんですか?」
「部屋? 部屋って言いますと……」
「もっとちゃんとした部屋ですよ」
私の切り返しが「は?」とか「え?」とかどんどん失礼な方向に加速していく中、山田仕郎は「応接室!」とぶっきらぼうに言い放った。なるほど、大切な書類だから応接室で書きたいということなのか。
特に用意は無いし、この喫茶店は恵美子さんと母があらかじめ相談して決めた待ち合わせ場所だ。
「この辺りにあなたの銀行は無いんですか?」
「あったとしても、銀行の利益にならないプライベートな用事で応接室は使えないでしょう」
そう言い放って、アハハ、と笑いながら、山田仕郎はキレるかも知れないな、と思った。
しかし、キレなかった。
結局山田仕郎はその場では書かず、千代田区役所の記入台で書いた。
五箇所を書き損じ、書き間違える度に訂正印を押した。あまりにも書き間違えるので、横で眺めていた私は「訂正印は最後に押した方がいいんじゃないですか」と言ってしまった。(返事は無かった)
そうして無事、婚姻届は受領され、私は戸籍の上では山田ミナトになった。けれど、銀行内では旧姓を使用し続けると決めている。明日からも、何も変わらない。