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林真理子先生、アタシね、「ひどい事件が目にしみる」んじゃなくて『葡萄が目にしみる』ようになりたいの…

高山真2015.03.16

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『週刊文春』で林真理子氏が連載している『夜ふけのなわとび』、先週発売された3月19日号では、川崎の少年殺人事件を話題にしていました。保護者である母親を批判し、ひいてはシングルマザーの恋愛を痛烈に批判する内容でした。かいつまんで言うと、

「母親が子どもを守れたはず」
「少年の母親には恋人がいたそうだが、シングルマザーの母親に言いたい。子どもが中学を卒業するくらいまでは自分の恋愛はするな」
「いつまでも女でいたいなんて恵まれた人妻の余裕の言葉」
「昔の日本は、貧しくても親は着飾ることはせず、自分はつぎあてのものを着ていても、子どもには腹いっぱい食べさせていた」

という感じでしょうか。この件については、フリーライターの武田砂鉄氏の言うことが非常にフィットしたので、リンクを張らせていただくわ。
http://bylines.news.yahoo.co.jp/takedasatetsu/20150313-00043794/

 夫のDVから逃れるために5人の子どもを引き取った、少年の母親。この時点で、すでに「子どもを守るため」に動いたことは明白であるうえ、その後、彼女は働きづめに働いて、年老いた親の介護までやっていたとか。それで言われるのが「あんたは子どもを守れなかった」「昔の親は、自分はつぎあてのものを着ていた。それに比べて今のシングルマザーは……」なんてことなのかと思うと、鉛を飲んだような気分になるわ。

「どの本か」を思い出せないなんて私の頭ももうろくしてきたわと思うけれど、西原理恵子氏がかつてアジアのものすごく貧しい地帯を旅していたときの経験を作品にしていたとき、「バラックのような家々から、夕方になると、美しく化粧をして色とりどりの服に身を包んだ若い娘たちが出てくる。ゴミだらけの、茶色一色のような風景の中、美しい蝶々が舞っているみたいだった」と漫画に描いたことがあるの。「蝶々」だったか「カゲロウ」だったかはすでに記憶があやふやだし、細かいレトリックも違っているかもしれないけれど、確かにそんなニュアンスで、西原氏は漫画にしていたはずです(推定4人の読者の皆さんの中にご存じの方がいたら、「●●という作品だった」と教えていただきたいのだけれど……)。

 最貧の家々の女たちが、なぜ、「自分はつぎあてのもの」を着ずに、美しく化粧をし、着飾るのか。それは、「自分がつぎあてのものを着る」よりもはるかに「子どもたちをお腹いっぱいにする」方法があるから。もっと言ってしまえば、「自分よりも小さき家族を育てるために体を張る。その体の張り方に、セックスを売り物にすること以上の方法が存在しない」ということです。

「いつまでも女でいたいなんて、豊かな人妻の余裕」という「世界」とはまったく違う世界が西原氏の作品の中にはありました(その「世界」を西原氏がどう捉えたか、ということはここでは省きます。私自身がうろ覚えだし)。ただ、西原氏がほかの作品、たとえば『ぼくんち』でも描いた「子どもたち(『ぼくんち』では弟たちですが)にお腹いっぱい食わせるために、女を使わざるを得ない」という「世界」が、実は昔から日本においてもさして珍しくもないものであることを、私は感じています。昔の言葉でいう「お妾さん」が、家庭を持っている男から生活費をもらって、自分とその男の間にできた子を育てている例は、むしろ林氏が「美しき時代」として語っている昔のほうが多かったのでは、と思うわ。そして現在は、その「様式」が違ってきているだけなのでは、と。

 これだけは誤解しないでいただきたいのだけれど、私は、犠牲になった少年の母親が「いつまでも女でいたい人だ」と判断しているわけではない、ということ。加えて、「百歩譲って仮にそうだとしても、豊かな人妻には許されて、貧しいシングルマザーには許されないことの線引きを、豊かな人妻側が決めるなんて!」「いつまでも女でいたいと思おうが、女からさっくり降りようが、どっちだっていいじゃない」とも思っている。私が言いたいのは、ひとつだけ。

 シングルマザーの恋愛の動機は、「いつまでも女でいたい」より、「子どもが今よりもいい環境で生きていけるかも」というかすかな希望を必死に探したゆえ、ってほうが多いんじゃないか、ということです。こういう言葉かあるかどうかは知りませんが、「わたし主義」ではなく、「子ども主義」ゆえの恋愛なのではないか、と。

 私にはシングルマザーの友人が何人かいるけれど、その中にひとり、DV男から逃れ、難病指定に入っていない病気の我が子を育てている、決して収入に恵まれているわけではない女友達がいます。彼女が自分からする話のほとんどは、子どものこと。ただ、彼女は最近まで、ものすごく稼ぎのいい既婚者に惚れられて、実際に付き合っていました(現在は様々な事情で別れたけれど)。彼女は、あるとき、私にこう言いました。

「■■さんにはどんなに感謝しても足りないくらい感謝してる。今までの人生でいちばんリスペクトできる人だと断言もできる。好きかと訊かれれば、好きですって言える。でも、最上級のライクやリスペクトはあるけど、ラブではないんだ」と。そして彼女は、思いつめたような目で「姐さんだったらわかってくれるかな」と私に尋ねたの。

「そりゃわかるわよ。もう7年以上前に亡くなったアタシのオトコも、アタシが彼の母親の医療費を工面できるような人間じゃなかったら、アタシと付き合ったかどうか定かじゃないのは知ってるもの。でも、『彼が何を決め手にしてアタシと付き合ったのか』って基準が、アタシが彼を選んだ基準と違ってても、それはそれなのよ。ヤツと付き合った3年半、アタシは楽しかったし、ヤツはいいオトコだったわよ」

 それを聞いた女友達の目がみるみる潤んできたのに気づかない振りをして、私は「やだ、昔を思い出したらおしっこしたくなったわ。ババアの尿意便意は我慢がきかないのよ。ちょっとトイレ」と席を立ったの。

 石川啄木じゃないけれど、「働けど働けどなお我が暮らし楽にならざり」というときの恋愛は、「余裕」の中から生まれるがゆえの、胸がときめくようなことばかりではないのでしょう。泥沼のような、すぐには死ねない、まったりとした地獄に、1本だけ垂らされた蜘蛛の糸が「恋愛(のようなもの)」であったとして、それにすがりたくなる気持ちの何が悪いのか。林真理子氏が生まれてこの方、恵まれた人生しか送ってきていない「強者中の強者」だなんて言わないわ。山梨での学生時代の壮絶ないじめられ体験から抜け出るために「東京での大学生活」という蜘蛛の糸をつかみ、就職活動全敗で、植毛クリニックで注射針に植毛用の毛を入れ込むバイト生活の中で「これがコケたら死ぬまで毛入れのバイトだ」と言い聞かせながら「コピーライターへの道」という蜘蛛の糸をつかんだ林氏の人生を、私は本で読んできて知っている。しかし、「時流に乗ったし、『時代』という運もあった」と、結局はそれが「切れなかった蜘蛛の糸」であったことを林氏本人も認めているのなら、運に恵まれなかった(男運・家族運も立派な運です)女たちが、「たぶん切れてしまうだろう」と本人ですら薄々気づいていながらも必死の思いで手を伸ばす蜘蛛の糸を、「余裕ある人間の生活のスパイス」と同列に並べて断じるような真似はしてほしくなかった。林氏の書くものに何度も感動してきた身として、余計にそう思うわ。『葡萄が目にしみる』は名作中の名作よ……。

 いまはただ、少年の冥福を祈り、残されたお母様とごきょうだいが静かな生活を取り戻すことを祈るばかり(こういうことを書いてアップするという時点で、この願いと矛盾することをしているのは自覚しています)。そして、離婚家庭の実に8割にもおよぶという「別れた夫が養育費を払わない」という事実も含め、シングルマザーの子育ての支援がもっともっと切実な問題として各方面で取り上げられることを祈ります。

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