有給7日間+土日2セット、計10日間の夏休みはウェディングドレス選びの為のショールーム訪問でほぼほぼ使い切り、休暇最後の日曜日、母と私は2着のウェディングドレスの資料を携えて山田仕郎の一人暮らしのマンションを訪れた。
そのマンションを結婚後の新居にするか、それとも他に物件を探すのか、判断する為である。ついでに、候補に挙がっているドレスを恵美子さんと山田仕郎に見せる。相変わらず頻繁に電話で連絡を取り合い、今日見たドレスはああだったこうだったと報連相を欠かさなかった母が恵美子さんと決めたイベントだった。
「やっぱり遠いわね」
と、駅前の商店街を歩きながら母は言った。まだ改札を出てから2分しか経ってない。母の手元には恵美子さんが電話口で説明した道案内のメモがあり、「通学路の看板を右」とか「鳥居のある家を左」とか書いてある。勤務先の大学病院まで徒歩圏内、という条件で山田仕郎は購入したそうなので、品川区の某駅から徒歩5分以内という好立地だ。
「ウチから駅までより、ずっと近いですよ」
私が返すと、母は「違うわよ」と言った。
「ミナトちゃんがお嫁に行った後、ママが通うとしたら、遠いわねぇってことよ」
「はぁ」
「やっぱりママとしては、『スープの冷めない距離』に住んでほしいのよね」
『スープの冷めない距離』という単語を久々に聞いたな、と母の隣を歩きながら思う。
その単語を使っている人を、私は生まれてこの方、母以外に見たことが無い。
「恵美子さんにはね、やんわりと伝えてあるのよね」
母は妙にきっぱりとした口調でそう宣言すると私の方を見てきたので、とりあえず曖昧に頷いておいた。
「やんわりで伝わるんでしょうか」
母のプランだと、今日の訪問で山田仕郎が住んでいるマンションは売るなり貸すなり、ともかく新居にはしないことを確定させ、新居は新居で母の言う『スープの冷めない距離』に探し始めたいようだった。
しかし大前提として、山田仕郎の持ち家なのである。現金一括で購入したマンションである。流石に「住みませんから売りなさい」「はいわかりました」とはいかないだろう。
それぞれの思惑が交錯する中、女三人に囲まれて、山田仕郎はどんな意見を持つのだろうと思うと、私はなんだかワクワクした。
そうしてマンションの1階エントランスで待っていたニコニコ顔の恵美子さんに連れられ、母と二人で足を踏み入れた山田仕郎の一人暮らしのマンションは、まず、玄関から見えたダイニングのカーテンの色がパステルカラーの水色だった。
別に悪いことじゃない。どこも悪くないんだけれど、でも、なんとなく四十路手前の独身男性が自分でこだわりを持って選んだ色には思えない。
短い廊下を歩いて通されたダイニングに立ち、右を見ると、布団が敷かれたままになっていた。
敷布団のシーツの色は、カーテンの色とは微妙に違う淡いブルーだ。そこに自動車の柄のタオルケットが綺麗に畳まれて置いてある。タオルケットの自動車の柄には見覚えがあって、弟が小学生低学年の時に使っていたセカンドバッグの柄だった。サンリオである。枕は頭の形に凹んだままで、枕カバーはブルーの花柄だった。
それから、学習机があった。机の背面の棚には、漢字辞典、ことわざ辞典、国語辞典が並び、小さな地球儀を挟んで英和辞典と和英辞典の背表紙も確認できた。
地球儀の横には貯金箱があった。可愛らしいキャラクターの貯金箱だが、日に焼けてどことなく色あせている。
一方、机の上には「日本内科学会雑誌」と「日経メディカル」がうずたかく積まれ、軟膏と目薬のケースがいくつも置いてあった。机の横にはランドセルをかけるフックがついていて、そこにゴミ袋がかかっていた。
部屋の主である山田仕郎本人はと言うと、立ち上がるでもなく出迎えるでもなく、学習机の付属の椅子に所在なさげに座っていた。
私は部屋に一歩足を踏み入れ、「わぁ~!」と言いながらカーテンからゴミ袋まで5秒くらいかけて眺め、そのままどこをどう褒めたらいいのかわからなくなった。
母は母で、「まぁ、仕郎さん、物持ちがいいんですねぇ」などと言っている。恐らく小学生から使い続けている学習机を褒めているのだ。
数多の訪問先のお宅を褒めて褒めて褒めまくってきた私だが、この部屋ほどコメントに困る家は無いような気がした。
「小学生の男の子を育てているお医者様の部屋って感じですね」以外の感想が浮かんでこなかった。
けれど小学生の男の子などいない。
ここに住んでいるのはお医者様の山田仕郎だけだ。
更に左を見るとキッチンがあった。お湯がすぐに沸く電気ケトルとマグカップが置いてあり、他には何もない。どこかにしまってるのかも知れないが、鍋もやかんもない。
「仕郎さん、お料理とかなさらないんですか?」
キッチンの様子を眺めながら私がそう尋ねると、「ガスが爆発するかも知れませんから」という答えが返ってきた。
母は何かの冗談だと思ったようで軽く笑ったが、恐らく山田仕郎は冗談などではなく、心からそう思っているのだろう。恵美子さんが深く頷いている様子を見ると、それが良くわかった。
「ガスが爆発するから」という理由で火が使えない為、お茶は出て来ず、そもそもパッと見た感じ来客用のコップ等があるとも思えず、冷蔵庫から出てきた冷たいペットボトルのお茶を飲みながら恵美子さんと山田仕郎にドレスの写真を見せた。
恵美子さんは写真を見て、「まぁ、イメージ通り!」と喜び、母と二人、長い時間ドレスについて話し込んでいたことを伺わせた。
「仕郎もねぇ、ちゃんと見なさいよ、ほら、ミナトちゃんに凄く似合うでしょうね」
学習机のところから動かなかった山田仕郎はつまらなさそうな顔のまま緩慢な動作で立ち上がり、恵美子さんからパンフレットを受け取ると「ははぁなるほど」等とモゴモゴ言っている。
山田仕郎は何が気に入らないのだろう。
私が着る予定のドレスが気に入らない、というわけでは、絶対に無い。
家を褒められなかったことでも、多分無い。
ペットボトルに口をつけながら山田仕郎の表情をチラチラ見ていると、恵美子さんが母と話している時に何故か愛想笑いのようなものを一瞬浮かべ、その直後に表情筋が強張っている。
恵美子さんが母に気をつかっているのが気にくわないのかも知れない。
ドレスの話が早々に終わり、一瞬の沈黙があると、母が口を開くより早く、恵美子さんが「ミナトちゃんに住んでもらう新居のことですけれどね」と言った。
「このマンションじゃ、ちょっと狭いでしょう。ミナトちゃんもそう思うでしょう?」
私が頷く前に、隣の母が頷いている。
「仕郎さんはどう思うんですか? ほら、仕郎さんの持家じゃないですか」
話を振られた山田仕郎は「そうですなぁ」と言ったきり何も続かない。
「新居は私が責任を持って探しますからね」
恵美子さんの宣誓に、母が慌てたように「ご一緒しますわ」と言い、とりあえず新居はここではないどこか、と決定した。
気の早い恵美子さんが「このカーテン、とっても地厚で良い生地なのよ。私と則子でオーダーしたの」と、暗に「新居にこのカーテンどうかしら」と勧めてくるのを笑顔で受け流し、「カーテンのオーダーって、憧れだったんです! 素敵なインテリアのお店があるので、そこで私もオーダーしまぁす!」等と言いながら、この部屋は恐らく恵美子さんとお嬢さんで作った第二の子供部屋なのだろうな、と思った。
この部屋ではセックスできない。