No Women No Music 第13夜 愛しきふるさとと闘った儚き歌姫~鄧麗君(テレサ・テン)
2015.02.09
台湾に行ってきた。台南、高雄まで足を延ばすことに決め何か面白い所があるかなどと「地球の歩き方」をめくっていると“鄧麗君紀念文物館”が目に留まった。テレサ・テンか・・・。
数十年前のおぼろげな記憶でワイドショーかなにかだろう、テレサ・テンが沈鬱な面持ちで涙をながしている姿が浮かんだ。なんのスキャンダルであったかまったく覚えていない。だがその沈鬱なテレサの表情を思いだした途端、この人には何かある、といてもたっても居られなくなった。「つぐない」「愛人」「時の流れに身をまかせ」・・・日本で大ヒットしカラオケでは定番のテレサ・テン。彼女の足跡を知るにつれ、日本で活躍したテレサの業績が、東南アジアの大スター鄧麗君の一面であったにすぎないことに遅まきながら衝撃を受けた。
テレサ・テンは中華民国(台湾)雲林県で生まれた。父親は1949年中国内戦で敗れ台湾へ逃れた蒋介石とともに台湾へ移住する軍人のひとりだった。飲食店を営むも生活に逼迫する家族を、天性の喉を生かした地元ののど自慢大会で有名になり10代で歌手デビューしたテレサが支えたという。20代ですでに台湾・香港にまたがるスターであったテレサ。
1974年日本での活動が始まった。順風満帆とまではいかずとも着実に日本での実績を積み始めた矢先の1979年、インドネシア発行のパスポートで日本に入国しようとしたテレサはこの旅券使用で成田にて入国管理局に収容されてしまう。当時、東アジア間の国交はいまほど自由に各国を行き来できるような時代ではなかった。日本での強制退去後、アメリカへ渡りUCLAに通い新しい息吹に充実した時を過ごしていた最中、台湾ではテレサの歌う「何日君再来」が大ヒットしていた。80年、台湾への帰国は大熱狂で迎えられ香港、マレーシア、シンガポールのツアーも行い正に東南アジアの歌姫であった。81年には台湾で軍の慰問コンサートも行われた。だが83年、中国では鄧小平のブルジョア自由化反対のもと、テレサの歌を「精神汚染」の一環とした。テレサの歌は「淫ら」で精神的に有害であるから聞くなと民衆に命じテレサのカセットテープを持っていることですら犯罪者扱いされたという。日本の歌謡界でトップスターとして輝いていた時代、テレサのアイデンティティともなる自国での出来事である。
1989年テレサにとって日本デビュー15周年となる年、中国改革派の胡耀邦元書記長が死去。天安門広場では「独裁打倒、官僚主義反対」を掲げた学生達が集いデモも広がるなか、鄧小平は「ブルジョア自由化反対において、胡耀邦は軟弱であった」とし学生運動と対立。天安門で学生が殺されるニュースに接したテレサは当時彼女の制作担当であった鈴木章代さんに〈共産党をどう思いますか。人間には上下があるんですか、共産党だから学生さんを殺していいんですか。そんなことが許されるんですか〉(*1)と電話で問うたという。そしてテレサは逡巡のあげく香港のハッピーヴァレーで行われた学生たちを支援するチャリティーコンサートへ向かう。
〈日本の芸能界では政治的な思想を持った歌手は敬遠される傾向にありました。差別的な内容はもとより、思想的な歌詞で歌われた曲が発売禁止になるのは中国にかぎったことではありません。スポンサーに嫌われ、ドラマやコマーシャルのイメージソングを歌うこともできなくなることだってありえます。・・・一度、国外退去を命じられたテレサに“二度目”があってはならないのです。〉(*1)と鈴木さんは自著でこう語っている。
だがテレサは、30万人もの支援者の前で“民主万歳”と書いた鉢巻に“反対軍管”と自らの筆で書いた紙を胸に掲げノーメイクに白シャツ、ジーパン姿で「我的家在山的那一邊(私の家は山の向こう)」を歌う。この曲は日中戦争時の望郷歌が、大陸から台湾へ逃れてきた兵士たちが詞を変えうたわれたかつての抗日歌であったという。その後の全世界のメディアを駆け巡った天安門事件でテレサは大きなショックを受け、中国返還目前の香港を去りパリへ移住。
天安門事件後、日本デビュー15周年記念の収録にて〈私はチャイニーズです。世界のどこにいても、どこで生活していても、私はチャイニーズです。だから、今年の中国のできごと全てに、私は心を痛めています。私は自由でいたい。そして、全てのひとたちも自由であるべきだと思っています。それが“おびやか”されているのが、とても悲しいです。でも、この悲しくてつらい気持ち、いつか晴れる。誰もきっとわかりあえる。その日がくることを信じて、私は歌ってゆきます〉(*1)と語ったという。
テレサは中国の古典詩に深い想いを抱いていたという。1983年に発表したアルバム『淡淡幽情』は中国の古い詩に新たに曲をつけてうたったもので彼女の代表作といわれている。
花や川、月や雲に思いを託した中国の人々の心模様を、オリエンタルな情緒をかもす旋律のなかに、一語一語の間にさえも艶やかな美を堪能できる味わい深い名盤だ。テレサは天安門事件の起こる以前、天安門広場で多くの民衆の前で歌うことを企画していたという。〈私はチャイニーズ〉と自らの出自を誇りながらも、その政治史に翻弄され、まるで難民のように香港からパリへと居を移り渡ったテレサ。中国の民主化が実現するまで大陸では歌わないといったテレサ。「つぐない」「愛人」などの俗な男女の恋愛を日本語で歌うその裏側で、愛すれど踏めぬ悠久の地、中国への思いをどれだけ歌い伝えたかったかと想像する。
高雄の閑散とした幹線道路沿に建つ鄧麗君紀念文物館。記念館というにはあまりにも無造作な倉庫の中に、薄埃を被りながら雑然と飾られるテレサの遺品。誇らしげに掲げられた軍服を身に纏った慰問時の写真。東南アジアのスーパースターであったテレサ・テンの短い生涯をふり返るには悲しすぎた。
〔参考図書〕「純情歌姫 テレサ・テン最後の八年間」鈴木章代(*1)/「私の家は山の向こう」有田芳生/「地球が回る音」中村とうよう/CD「淡淡幽情」ブックレット(中村とうよう)