私が始めて女性とセックスしたのは15歳の時。男性とのセックスの経験もなかった私がなぜ、すんなりセックスをできたのか今思うと不思議である。オンナ同士のセックスのHOW TO本なんて見たことはなかったし、経験者から話を聞いたこともなかったのになぜだ?!
しかもなぜ私はペニスを入れる代わりに指を挿入することが、セックスの最終段階だと知って(思い込んで)いたのだろうか。
ペニスがないことに苦しみながらセックスしていた私は、指がその代わりになるように涙ぐましい努力をしていた。このコラムでも当時の恋人Tとの話としてそのエピソードを書いてきたが、私はペニスがない自分を責め、Tはそんな“ペニスない人間”と付き合う自分が異常であるという罪悪感を感じていた。Tにとってはセックスは快感でありながら、その罪を思い知る行為だった。私は罪悪感を感じることさえできないほどの快楽をTに“与えよう”と必死だった。Tの罪悪感は私たちを別れさせ、そして私を全否定するものだったからだ。
まず、セックスするのは左手だと決めた。右利きの私は、右手中心で生活している。その日常的な部位が非日常であるセックスの中心的な役割を担う手が、同じものであってはならない。そう思い、左手を選んだ。ご飯を食べるのは右手、左手は不浄なものというインドの習慣をどこかで聞いた記憶からそう考えたのか。とにかく、私は左指をペニスの代用品とした。
私は酢に指を漬けた。毎日漬けた。指はペニスより硬い。その硬さを感じさせない柔らかな感触を纏うために漬けた。
爪を極限まで切った。挿入時に爪の存在を感じると、Tは涙を流した。「やはりペニスじゃないのね」と涙した。今なら、“そりゃそうでしょ。指だもの(笑)”と言るが、当時の私は違った。指から血が出るほど深爪をした。日常生活でそんな指を使うのは痛かった。でも、私の左手はセックスのためにある。そんな痛みは対したことではなかった。ポケットには常に詰め切りが入っていた。
中指、薬指、小指。これが私のペニスだ。この3本の指をどう駆使しても。完璧なペニスの形にはならない。露出狂の男のペニスを目の端でしか見たことがない私に、なぜペニスの形のイメージがあったのわかないが、私はTの膣の中で想像するペニスの形を作ることに専念した。先が膨れている筒状のもの。そんなイメージだ。そして不思議なことに、私の中指と薬指は、先が膨れている指になった。そして中指と人差し指は互いの方向にカーブし、3本合わせると、綺麗な弧を描くまでになった。
今でも寒い日には、中指には激痛が走る。昔、あまりに指を酷使したために腱鞘炎になった。「ごめん指。」冬になるといつも心で私は呟く。
私の左指の爪は、とても薄く柔らかくなった。酢のおかげだったのだろうか。軟骨に近いまでの柔らかさを持った。そんな爪も今や元の堅さに戻りつつある。
意思の力というのはすごいものだ。
そんな私がディルドを始めて知った時は衝撃だった。ペニスがなくても、ペニスを超える機能を持つディルド。「男に近づくセックスではなく、男を“超える”セックスが出来るんだ!」今にしてみれば、なんで、男基準で考えていたんだろうと思うが、当時はそんな風にディルドとの出会いを喜んだ。
ディルドを使ったセックスは、“男のセックスを模倣するものだ”という人もいる。しかし私にとっては、男のセックスの形から抜け出せる魔法の道具だ。ペニスはただの“挿入物”。それが、どんな形でも大きさでも、素材でも、それは使うオンナ達が一番気持ちいいものを選べばそれでいい。ペニスが一番、高スペックな“挿入物”ではないのだ。そう考えるとセックスが自由になった。男を連想させるディルドセックスは、ペニスを忘れさせるセックスを私に教えた。
柔らかい革のディルドもあれば、堅い芯を柔らなシリコンが覆うディルドもあった。先が細いディルドもあれば、渦巻き状のディルドもあった。小さいものから巨大なもの、温かくなるディルドもあれば、凍らせて使うディルドもあった。そして、素材と技術の進化はディルドを変え続けている。
セックスをよく知らない15歳の私が、いつのまにかペニスを挿入することがセックスであると思い込まされていたように、この社会は男不在のセックスを許さない。そして私がそうであったように、そのセックスのイメージは子供にも植え付けられる。でも、そうではない。オンナ達が、男が作る枠に閉じ込められることなく、自由に快楽の得方を選べ、作ることができる快楽の自由もあるのだ。
始めてディルドとハーネスを使う時、確かにちょっと恥ずかしい。なんか滑稽なのだ。しかしそこにはセックスは楽しいものなんだと教えてくれる世界がある。一度お試しあれ。