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台湾で2016年12月10日起きたこと。戒厳令時代から同性婚までの30年。

GraceLu2017.01.17

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ここ何ヶ月間も、台湾では「同性婚の合法化」が大きな話題になっている。12月10日には、25万人もの人がLGBTとジェンダーの平等をサポートするパレードに参加した。私のSNSでも、同性婚に関する議論がずっと更新されつづけてる。
ジェンダー平等を支持する台湾人として、このニュースは何年も前からフォローしつづけてきた。だから世の中の流れがいい方向に向かっているのが、とっても嬉しい。
日本や、他の色んな国にいる私のステキな友だちも、この一連の運動に注目してくれている。みんな不思議に思っているんじゃないかな。どうしたら40年にも渡る厳しい戒厳令時代から、まだ30年も経っていないのに、台湾がアジア初の同性婚法を成立(ほぼ確実!)させられるようになったんだろうって。
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民主主義であるはずの台湾が、1947年~1987年まで、厳しい戒厳令下にあったことを知る人は少ない。
戒厳令の40年間、台湾は外国の文化が禁止されてた。70年代や80年代の輝かしいヒッピーカルチャーとポップカルチャーを私たちは逃したのだ。私が音楽に目覚めて最初に知ったポップスターはマイケル・ジャクソンだけど、既に彼の肌は白かったし、クィーンとデヴィッド・ボウイを知ったのは2003年、私がイギリスのカレッジに留学をしていたときのこと。
私の親の世代は、戒厳令の影響をより強く受けているし、支配されてきた。私の父は、ビートルズのテープや、左翼の政治プロパガンダ(今は「緑の党」になっている)を街のキオスクでどうやって手に入れたかをまだ覚えてる(こういったものは表には並べられず、棚の下にこっそりと隠されて売られていたのだ)。現実の世界で”今起きていること”を知ろうとしただけで、深刻なトラブルに陥る危険と隣り合わせだった。
戒厳令が敷かれた40年、私たちが手にする情報の全てが、教育の中も含めて、全て、本当に全て、厳しく監視されてきた。だから今の50代~70代は、いつか中国に戻り、台湾は中国と一つになるんだと信じて育ってきた。中国からやってきた移民と、もともと台湾に暮らしていた人々を統合するために、戒厳令は必要だとされていた。蒋介石は、台湾の秩序に戒厳令が効果的だと信じていたのだ。なぜなら蒋介石は、彼の敵だった毛沢東と同じく、独裁者だったから。
1991年にやっと動員戡乱時期臨時条款(国民党が独裁政権でいるためにつくられた法律。戒厳令は国民を支配するためのもの。この法律は政府の正当性を認めるためのものだった)が廃止された。動員戡乱時期臨時条款のためにあまりにも多くの悲劇が起きたけれど、動員戡乱時期臨時条款が廃止されるまで、私たちはこのことをよく知らなかった。なぜなら政治について話すことは禁じられていたし、メディアも全てコントロールされていたから。
228事件(1947年白色テロ)、美麗島事件(1979年言論弾圧事件)は、この時代に起きた。でもそれらは何十年も私たちの知識から消されていた。事件について語り、被害者が明らかになるまで40年もかかったのだ。その間ずっと、被害者は無権利状態に置かれていた。やっと公の調査が行われるようになって、今までとは別の側面から事件について知ることができるようになって、この悲惨な事件では多くの台湾の人々だけでなく、1949年以降に中国から移住してきた人もたくさん犠牲になったことが明らかになった。(台湾の歴史についても、このコラムで少しずつ書いていくつもり)
戒厳令が解除され、動員戡乱時期臨時条款が無効になってから、長い悪銭苦闘の時期を経験して、台湾はやっとバランスを取り戻して、自分の足で立ち上がり、独立したメディアを発展させてきた。インターネット時代にも順応し、自由に世界を観ることができるようになった。自分たちの受けた教育が独裁政治の管理下でつくりだされたものだったことを知って、台湾の人々は「自分たちが信じていることを疑う」ことを学んだのだ。
このような体験が台湾の人々に共通する「特有の感覚」を生み出した。それは、自由な精神をとても大事にすること、また、嘘の発言や人を洗脳するようなプロパガンダに対して非常に敏感であること、そして、古い価値観にとらわれずに柔軟であること。同性婚をどうするかという問題では、台湾人が持つこのメンタリティがまさに生かされたといって良いだろう。
ここ数十年間に台湾の女性の権利を前進させる努力がどれほどのものだったかを、ここで簡単に触れることはできないけれど、台湾は長い長い努力を得て、よりジェンダー平等の社会を作り出してきたのだ。
とはいえ、いくらLGBTに理解のある社会になったとはいえ、同性婚に対しては、まだまだ遠い社会だった。・・・そう、昨年までは。
じゃあ2016年に一体何が変わったのか?そして何が台湾をアジアで初めて同性婚法を成立されられる国に前進させたんだろうか?
実は「護家盟」という同性婚に反対する過激団体が、ある意味重要な役割を果たしたと私は見ている。「護家盟」は様々な宗教団体の保守的な代表からなる団体で、2014年から台湾の主要なメディアを使って、同性婚やジェンダー平等に対する恐怖を主張してきた。彼等には豊富な資金源があるので、過激で根拠のないLGBTに対する否定的な考えを精力的に流してきた。その影響はかなり大きくて、ジェンダー平等やLGBTに対する反対意見なども提出されたりして、その中には親が学校で自分の立場を明らかにしないとならないようなものまであった。
残念ながら、こういった護家盟によって広まったホモフォビアメンタリティー剥き出しの保守的なプロパガンダと、それに同調するような保守的な発言は台湾社会に広がっていった。
でもそれが逆に、多くの人たちに強い危機感を抱かせ、そして彼等に対する反対意見を表す決意をさせていくことになったのだ。その結果が、2016年12月10日だ。
1週間前の告示にも関わらず25万人もの人々がLGBTと同性婚をサポートするパレードに参加した。参加者は平等の権利を求め、自分とは違う個人に対し偏見を持たず支持することを、世界の人々と次世代に向けて表明した。
考えてみてほしい。そのパレードの背景には、40年に及んだ独裁的な統制を経て、私たちが今手にしている自由を得るまでの凄まじい努力と闘いがあったことを。この社会の動きは台湾の人々の出した、明確な意見表明なのだ。同性婚をどう考えるかだけにとどまらず、私たち・私たちの世代がどういう台湾を作っていきたいか、という表明だ。
25万人のパレード参加者の多くは、異性愛者で、子供を連れた親たちだった。彼らが立ち上がったのは、自分の権利のためではない。これが正義に関わる問題だったから立ち上がり声を上げたのだ。そして、声をあげる人はどんどん増えている。他人の為に、そして自分たちの国をどうしていきたいのか、声を上げているのだ。
そのメッセージとは、自分たちが今ここにいること、どういう台湾にしていきたいかっていうことだ。
台湾の社会は、今でも、そしてこれからも発展し続けるだろう。1949年には中国からの移住者が、そして2016年の今も世界中から多くの人々が台湾に移住し、台湾の新たな一員となっている。
この運動は、長く困難な道のりを経験し、違いを受け入れていくことを学んだ全ての台湾の人たちのためのものだ。私たちは、自分たちが信じていること、そして大切な人々のためにこれからも立ち上がり続けていくだろう。
これは、台湾における同性婚にとって素晴らしい日であっただけではなく、私たちが今ここにいること、関心をもっていること、そして台湾人であることの表明でもあるのだ。
台湾人として、私はこのことを誇りに思う。
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(訳:大内響)

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GraceLu

GraceLu(ぐれーす・るー)

台湾生まれ。世界の潮流&プロパガンダの中で育ちました。どうして多くの人は、差別や偏見を手放さず、自ら自分たちの平和を拒むのでしょう。そんなことを理解したくて未だに奮闘中。人生の目的は、もっと多くもっと深く世界を見つめていくこと。風にゆれるひまわりのように。 ラブピースクラブに出会ったのは10年前。公平な未来を求めて人々をサポートする姿勢に、共感しました。ラブピでのコラムは、未来を広げ、保守的な思考から自由になるために、共に学び、シェアしていくものにしたいです。秘密の扉を開け、より大きな世界を求めて! 

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