好奇の目に晒されながら自分の机に戻ったが、課員の誰も、面談の内容をはっきりと聞いてくることはなかった。それは恐らく、全員を見渡せるところに課長がずっと座っていたからで、私の予想に反して、課長は支店長にすぐには報告しなかった。
自分の机で顧客管理システムに今日の接触履歴を入力しながら、背中が耳になったような心持で課長と支店長の声に集中した。けれど結局、「支店長、ちょっと宜しいですか」と課長が言うことはなかったし、支店長も「課長、ちょっと」と声をかけることもなかった。
私がキーボードを叩いている間中、近藤さんという運用性商品と融資を担当しているおじさんがロビン先輩に保険の基本的な質問をし、「もー、近藤さんそれ聞いてくるの何回目ですか! いい加減覚えてください!」と笑いながら叱られていた。ロビン先輩があまりにも朗らかに笑うので、私は画面から目を離さないままつられて笑った。近藤さんが疑問に思っていたことは、例えば英文法だったら「is」と「are」の違いは何、とでもいうような、保険商品に関する本当に基本中の基本のようなことで、課長が大声で「近藤さん、本当に資格持ってるの、モグリじゃないの」と茶々を入れていた。
私は課長のモグリ発言に、振り向かないままでまた笑い、口角を上げたままパソコンの画面に表示された恵美子さんの名前を数えた。
今月、恵美子さんのお宅を訪問した記録上(・・・)の回数は7回。今日を入れたら8回だ。
ひと月に8回同じお客様を訪問すると、「高頻度先リスト」と言う支店長と課長しか見られないリストにそのお客様の名前が載る。高頻度先に挙がった先は、支店長が個別に訪問し、面談した旨を記録に残さなければならない。
銀行員が特定のお客様と必要以上に懇意になってしまうと不祥事の温床となるので、異常な頻度で訪問している先は課長と支店長と、それからよくわからない本部の部署からモニタリングされるのだ。
今日の訪問を記録に残すことで、恵美子さんの名前は高頻度先に挙がることになる。
課長が支店長にどのように伝え、支店長がどのような対応をとるのか、まだわからなかったが、黙殺するか人事部に報告するか、どちらかははっきりしていた。それならば人事部に報告されてもよし、黙殺されれば尚よし、である。高頻度先に挙がるようにしておけば、支店長が突発的に恵美子さんを訪問しても何も不自然ではなかった。
支店長と私、恵美子さんとお嬢さんの四者面談は、その週のうちに実現した。課長に報告した翌日、支店長から突然「課長から話は聞いたから、例のお客様との面談セットしといてくれ」と言われ、その10分後には訪問する日にちも時間も何もかもが決まっていた。惜しむらくは、無理やり予定を組んだので、現地集合になってしまった。支店長は支店から、私はその前のお客様のところから向かい、恵美子さんのマンション前で待ち合わせなのである。
予定を支店長と課長に共有する形でスケジューラーに入力し、口頭で「アポとれました」と報告しても、支店長は「じゃあ現地でな」としか言わない。課長は一瞬振り返ったが、支店長に会釈しただけでやはり何も具体的なことは言ってこない。私は二人の間で立ったまま漠然とした不安を抱え、もうどうにでもなれと思っていた。
もう、ともかく何でもいいから恵美子さんと支店長を会わせて、話は通っているという既成事実を作らなければ、と焦っていた。
かくして、支店長の今回の件に関する方針は、面談が始まってみるまで何もわからなかった。けれど、会話が始まってみると、すぐにわかった。支店長はお見合いの件は知らんぷりを決め込むことにしたらしい。
いつもお茶をいただくテーブルではなく、奥の床の間のある和室に通されて、上座から、支店長、私、恵美子さん、お嬢さんという順で座る。お茶とお菓子が出され、支店長がお菓子に手をつけようとしないので、私は今日のお菓子は食べられそうにないなぁと残念な気持ちになった。
支店長は、当然のような顔で「お持ちの運用性商品はいかがですか」といった趣旨のことしか話さない。
恵美子さんは「ミナトちゃんは本当によくやってくれています」という内容のことばかり口にした。
お嬢さんはお嬢さんで、「どうかミナトちゃんを辞めさせないで、今回の話はこちらから持ちかけた話なんです」と言い続けていた。
私は三人の発言の隙間を埋めるような形で会話に参加しながら、何だかよくわからないけれどがっかりしていた。
「恵美子さんはもともとあまり投資信託はお持ちではなかったですし、ここ数年はどちらかと言うと遺すことをお考えで、保険と債券のロールをメインで運用されていますよね」と、持ってきた資料を見れば誰でもわかるようなことをダラダラを喋って場を繋ぎながら、何が私をがっかりさせているのだろうと考えていた。
課長に報告した時、「やめとけ」とも「よかったじゃないか」とも言われなかった時にはがっかりしなかった。けれど、課長には震災の時に既に失望していた。非常時に毅然とできない、采配をとれない課長はリーダーとして私の中で終わっている。だから、課長に数日前会議室で報告した時、私は何も望んでいなかったし、何も望まなければ裏切られることもなかった。
失望するのは期待が裏切られたからで、私はこの期に及んでまだ何かを期待していた自分自身に対してもがっかりしていた。
にこやかな笑顔を浮かべ、成り立っているようで全く成り立たない会話を繰り広げる我々の中で、支店長が話を合わせてくれればすべてがうまくいくのにな、と思う。けれど支店長は恐らく、曖昧なまま今回の面談をやり過ごして、それでおしまいにしてしまうつもりなのだろう。
お嬢さんはは依然として私の助命嘆願をしてくれていたが、正直なところ、心は会社から既に離れてしまっていた。