後ろめたいことは多々あって、思い出すたびに、穴に入ってもう出ません、という気持ちになります。けれどそんなわけにもいかないので、何食わぬ顔をして生きているのだと思います。
このところ、中学で一緒のクラスになったS君のことをよく思い出します。
彼は難病を患っていました。3才のときに発症した腎臓病と、小学生になるとリウマチにも罹り、松葉づえかバギーを使っていました。
中学の半ばで症状が悪化して入院しましたが、その小児病棟で、同じ腎臓病で入院していた私の姉と出会います。
それからは親同士の面識もできて、なんとなくいつもお互いの状況を知っているような関係になりました。
高校生の頃に家に遊びに行った記憶がありますが、高校を卒業してからはすっかり疎遠になっていました。
20代の中頃に、S君はこれまでの半生を綴った本を、父が経営している会社、すなわち今私が働いている職場の、自費出版部から出しました。
当時、実家に帰るとその本があって、中身をパラパラと見たものの、ちゃんと読みませんでした。小学校から大学までの思い出話や、いくつかの写真がありました。
私にはずっとS君を避けてきたという後ろめたさがありました。彼の友達に「なってあげられなかった」という、不遜な思いを捨てることができませんでした。
本を出して数年後、S君は亡くなりました。私はお線香のひとつもあげに行きませんでした。
けれど実家に帰るとその本があります。今年に入ってようやく、いつまでもそんなわけにもいかないわ、と思って、アパートに持ち帰りぜんぶ読みました。
私が後ろめたさを持っていようがいまいが、S君はいつまでたっても体の痛みから逃れられなくて、そのなかで、学校に通って勉強をして、時々家族や友人と旅行をしていました。てんかんの発作や、幻覚に幻聴、それに白内障の手術を受けるなど、年月を経るごとに症状が悪化していく様子も克明に描いています。けれどそれと同じくらい、楽しかったことや、これからどうやって仕事をみつけて生きていくかについての記述も多くありました。
リウマチで痛くて鉛筆が持てなくて指に包帯で括り付けて書いていた、とS君のお母さんがあとがきで書いています。
同じクラスだった中学一年生のときのエピソードに、私がずっとひっかかっていたことがありました。書き写します。
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体育の授業が終わって、教室へ戻ったときだったと思います。バギーから降ろしてもらって、椅子に座ったときに、どこからか、
「ありがとう言ったか・・、言えよ」
という声が聞こえてきました。そのあとで、また別の声で、次から次へと同じようなことを言われました。痛い、痛いと思っているあまりに、体育の時間に手伝ってくれたクラスメートへの感謝の気持ちを伝えるのを忘れてしまっていたのです。そのときは、すぐに、
「 ありがとう」
と手伝ってくれた彼に言いました。でも、そのあとも言えるときと言えないときがありました。体育の時によく手伝ってくれたクラスメートの二人が、
「あまり気にせんでいいから」
と言ってくれたのには安心しました。でも、この感謝の気持ちを伝えるというのは、とても大事なことです。以後は気をつけるようにしています。
*『腹膜透析とともに生きる ~3才から腎臓病・リウマチ・てんかんをくぐって』より(在庫はもうありません)。
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体の痛みにおおわれている人に、「ありがとうを言え」だなんてひどい。最後の〆の文章にいたたまれなくなります。
私は給食の配膳の場面だったと記憶していましたが、この、何人かの不満が噴出した空気は覚えています。
私はこのとき、不満が出てきたのならありがとうと言ってしまったほうがいいわ、と処世術としてとらえました。
今読めば、「気にせんでいいから」と言った人でありたかった・・と思います。
「わかってもらおうと思うは乞食の心」と言ったのは田中美津さんでしたが、この、感謝を求めるサポートもあさましい。
福祉は可哀相な人がいるから必要なわけではなくて、人と自分を生かすためにあるはずです。
丁寧に近況が綴られた年賀状をもらったことを思い出します。また会いたいね、なんて言いあって、実際に会いに行かないことはよくあることですが、S君に対しては明らかに避けている気持ちがありました。彼の症状を人格より大きくとらえていたのだと思います。私はずっと差別していました。