終始、山田仕郎の振る舞いに気を取られていたこともあってか、今回の食事が表向きは自分の誕生日を祝う席だということなんて、食事の終盤にはすっかり頭から抜けていた。だから、ギャルソンがとびっきりの微笑みを浮かべてロウソク付きのお皿を運んできた時には、素直にびっくりした。
何せ、周囲のテーブルには誰もいないのである。自分の為かと思って喜んだけれど、ロウソクのついたお皿の着地点は隣のテーブルでした、という、お花ちゃんといる時に幾度も体験した残念な事故が一瞬脳裏を過る。だが今回は大丈夫だ。
私は安心して、小さく歓声をあげた。
「仕郎さんっ、あれ!」
眺めの良い窓に面したテーブルの場合、景色を楽しめる席が上座である。先ほどから無表情に窓の外を眺めていた山田仕郎は、突然私から浮かれた声で名前を呼ばれてこちらに視線を移した。
その表情がおかしい。奇妙に歪んだ顔をしている。なんだか、鼻から下だけ笑っているような、目は困惑しているような、そんな顔である。そして何も言わない。
反応に異常な落差のある二人をものともせず、ギャルソンは完璧な笑顔で「おめでとうございます」と言ってくれた。
ロウソクを吹き消す瞬間、皿に書かれた「Happy birthday ミナトちゃん」の文字を見て、恵美子さんが手配してくれたんだな、と思う。振り返ってみれば、山田仕郎は私のことを何とも呼んだことがない。「菊池さん」とも「ミナトさん」とも。
そこまで考えて、おや、と気づいた。
初回、病院で会った時には「山田様」と呼んだ。一時間半くらい前に待ち合わせ場所で落ち合った時には、「山田さん」と言った気がする。けれど脳内では常にフルネームで呼んでいて、さっきはつい、下の名前で呼んでしまった。
山田仕郎の奇妙な表情の原因は、これだろうか。
何の前触れもなく、突然下の名前で呼ばれたことに照れているのか、それとも、単純に不愉快なのだろうか。
先にデザートを食べてしまった私は、メッセージに使われたチョコレートをこそげたい気持ちをぐっと抑えて、フォークを置き、「さっきはすみませんでした」と言ってみた。
「何が?」
山田仕郎はすっかり元の無表情に戻って、ゆっくりと時間をかけて果物を切り分けている。
「突然下の名前で呼んじゃいまして」と説明しながら、急にですます調でなくなってしまったところを見ると、やっぱり苛つかせてしまったのかも、と思う。何せ、こっちは十近くも年下なのだ。私だって会って数回の高校生に「ミナトちゃん」とか突然呼ばれたら、何様だお前、とか思うだろう。
私が脳内で男子高校生に馴れ馴れしく話しかけられる妄想劇場を繰り広げている間に、山田仕郎はナイフとフォークをハの字の形に置き、こちらを見て「ああ」と言った。膝に乗せたナプキンでお上品に口もとを拭って、一言続ける。
「貴方に一任しますよ」
「は?」
私に一任する。
普通の会話で「一任します」なんて言われたことがないので、私はぽかんとして山田仕郎を眺めた。
「呼び方は貴方の好きなようにしてください」そう、言い直した後で「終わりは神様にしかわかりませんが、これから長い年月一緒に過ごすわけですから」と続けた。
「はぁ」
もしかしたら、今自分は大変にロマンチックなことを言われているのかも知れない。
頭のどこかでそう思ったが、別の部分では「一体何を言ってるんだ?」とも思っていた。
何しろ、「貴方」とか「一任します」とか、他人行儀な口ぶりと、それに加えて終始一貫した淡白な口調である。
そもそも、今この瞬間に至るまで結婚するのかしないのか、具体的な話を一切していない。
いつのまにか運ばれてきたコーヒーに泰然と口をつける山田仕郎を眺めていると、また集中力が途切れてきて、私は適当なことを喋り出した。喋っている間に、考えを整理したかった。
「そういえば、仕郎さんってお名前って、どなたがお付けになったんですか」
「名前ですか」
「ええ」
山田仕郎は右手を軽く握り、口もとを隠すような仕草をした。もともと乏しい表情が更に隠れて、もう全然よくわからない。
「父ですね」
「ああ」と相づちを打ちながら、「お父様、お名前たしか三郎さんでしたよね」と続ける。
そういえば釣書を最初に見た時、親子なのにまるで兄弟のような名前だと印象を持った。
「三郎によく仕えるようにと、仕郎なんですよ。」
「ん? あっ、なるほど……?」
戦国時代か何かだろうか。そう思って「なんか、戦国時代みたいですね」と言うと「父の一存ですし、そう良いものではありません」と返されてしまった。心なしか暗い表情である。
仕郎以外の山田家の家族は皆、同じマンション内に暮らしている筈だった。恵美子さんとそのお嬢さんの則子さんは6階の部屋で過ごしていて、則子さんと婚姻関係にある筈の三郎さんは常に4階の部屋にいる。山田仕郎の妹の部屋も6階である。あれだけ高頻度に訪問している私ですら、三郎さんが6階の部屋に上がってきたところを見たことがない。加えて、この表情。
何かひっかかる。具体的に考えるには、まだ材料が足りない気がするけれども。
かくして、何もかも曖昧なまま食事会はつつがなく終了した。
山田仕郎は淡々と会計を済ませ、私の顔と私が持つ財布を見て一言、「貴方が払う必要はありません」と言った。そして、一直線にエスカレーターの方へ歩いていく。
上りは山田仕郎の方が先に乗ったが、下りは逆で、エスカレーターの三歩くらい手前でスッと速度を落としたので私が先に乗った。
山田仕郎が常にエスコートされる側の意識でいることが非常によくわかったし、私はエスコートされなくても構わない。
「あの、仕郎さんにちょっとお聞きしたいんですが」
意を決して振り返ると、山田仕郎はあさっての方向を見ている。
「私と結婚していただけるんですか?」と聞いた瞬間に1階について、我々はしばし向かい合った。
沈黙は僅かな間で、すぐに山田仕郎は「よろしくお願いします」と呟き、「では、これで」と言い残してあっさり帰っていった。一瞬の出来事だった。