「Fonte」という不登校・ひきこもりの専門紙がある。去年インタビューを受けたことを機に、その面白さを知り購読するようになった。
最新号(2016年5月1日)は「勉強は大丈夫?」という編集長の石井さんの記事が面白かった。
石井さんは、不登校の子をもつ親御さんから「学校に行かないことよりも勉強の遅れが心配だ」という相談を毎年欠かさず受けるという。そんな中、「不登校経験者、親、識者の話をよくよく聞いていくと勉強に関して2つのタブーがある」ことに気付いたそうだ。
一つは「ムリに学校(塾)などで勉強すること」それと「自分と他人を比べること」。
そこを踏まえて、勉強の遅れはどうしたらいいのか。
石井さんは「勉強は3つに切りわけられる」という。
<1>学校の勉強(教科学習)<2>生活に必要な勉強 <3>仕事上必要な勉強
「<1>教科学習がすべての土台だと思っていたがちがいました。3種類の勉強は自然と必要に迫られます。それぞれ必要なタイミングで学ぶと吸収が早かったです」。
勉強については「本人に適した環境やタイミングがある」。
ほんとうにそうだなあーと思った。学校では「<1>ができないと、お前の今後の人生、全部だめ」って教わるよなー。数学とか古典とかより、「学校=人生」という概念を教わる場所って感じだ。
だから「学校に行かないこと=人生の終わり」みたく思ってた。けど今になったら、<1>は、あくまで3つの中の一つであって、全部じゃない。
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私は私立の一貫校の生徒だった。毎日通ってたけど、よく考えると中学3年生から丸4年間は学校の勉強をしてなかった。卒業できるギリギリの単位の計算は必死にしてたけど、授業中はできるだけ寝て、放課後は限界まで遊ぶ。友達といることだけが唯一、癒やしだった。
今思うと、家庭での母とのやりとりでパワーを使い果たすので、勉強する余力なんてなかった。ただの電池切れ。言い訳ではないと今ははっきり思える。むしろ当時のほうが、親のせいにしてはいけないと思ってた。
自分の部屋にいると母親がほぼ毎日乱入してくる。「勉強しろ」とか「部屋を片づけろ」とか「手伝いをしろ」とかそういう類いの内容で、しょっぱなから母はMAXで怒(いか)ってる。だんだん母の声のボリュームが増すごとに「お前はろくでもない人間だ」という人格否定なセリフも混ざってくる。「あの時もこの時も」と過去のこともでてくるし、「○○さんとこの△ちゃんは」というよくあるやつも登場する。
子どもだからじっと机に座ったままその罵詈雑言をちゃんと耳に流し込んでしまう。聞くに耐えなくなり黙らせようと母につかみかかる。もみ合いになる。怒りと興奮でお互いの脳内がスパークした瞬間、母がウエ~ンと泣いたり、若しくは「分かる?! お母さんはエイコちゃんを愛してるのっ!」などと唐突に愛を説いたりしてくる。そうやっていつでも母の好きなタイミングで大団円となる。
そういう「お母さん劇場」の主役(お母さんとのW主演)としての役割が、当時の私の親から求められていることのすべてだった。母は無意識なのがやっかい。
勉強なんかできるわけがない。
お母さんのセリフにはいつも「勉強しろ!」が入ってたけど、お母さん自身の核の部分は、そんなこと思ってなかったと思う。勉強しようとすると、「勉強しろー!!」って耳元で怒鳴ってくるんだから。
私が勉強するようになったら、お母さんはそのセリフが言えなくなる。私が良い成績をとって、素晴らしい学生になって罵ることがなくなったら、劇場が開催できなくなる。そうなってしまうことのほうが、お母さんにとっては不安だったんだろう。お母さんは家庭内主演劇中毒だったから。
お母さんの真意は分からないし、正直どうでもいい。私は自分が受けた理不尽を解釈して納得しないと前に進めない。
美大受験の実技の勉強は頑張ったけど、それは学校の勉強とは違うから、結局やっぱり学校の勉強はしなかった。
一刻も早く、社会人になりたかった。<1>(教科勉強)がまっとうできない環境から脱出して、<3>(仕事上必要な勉強)だけできれば生きていける世界に行きたかったんだと思う。
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30歳を過ぎてからは、<2>の「生活に必要な勉強」が全く身についてないことがコンプレックスになった。私にとっての<2>は、片づけ、料理、掃除とかの家事。
最近、37歳になってやっと、家事の大切さやおもしろさが分かってきたような気がする。必要なタイミングがきたという感じ。15年以上かかったし、マスターするのにあと20年くらいかかりそう。
家事は自分の身の回りの世話なんだということ、それがいま分かってきた。私にとって「家事」は「女だからできなければいけないもの」でしかなかった。
女は家事ができないとそれだけでダメ人間扱いされる。深刻な問題としてじゃなく、世間話、軽口として常に、日常的に、周りの人から、職場から、テレビから、ラジオから、実に絶え間なく、「女なのに家事しない・できない=ダメ」というメッセージを浴びせ続けられる。
栗原はるみの季刊誌「haru_mi」を読んでたら具合が悪くなってきてその場でげぼりそうになったことがあった。家族のためにおいしい食事をつくれるようにつねに努力するべき、みたいな名言、もうすぐ70歳なのに30代の自分よりもジーンズを美しくはきこなす姿。栗原はるみを形成する全てが正しすぎて、現世で自分はこんな人にはなれない、という圧でつぶされそう。
どんなことでも、できないことをできるようになるには段取りがある。なのに「女だから自然にできるだろう」みたいなことになってる。女なら当然楽しめるだろう、ってことになってるから、福山雅治に「結婚してどうですか、ラクできるでしょう」と誰かが聞いたというニュースが悪気なく流れる(吹石一恵は奴隷じゃねえ!)。人それぞれ育ってきた環境が違うのに、女なのにできないと「育ちが悪い」とかご先祖様までディスられる。
私は、そういう世の中にムカムカむかっ腹が立っていたが、その反面、家事がうまくできない自分(台ふきんとかの布ってさ、どのタイミングで使うわけ? 全部キッチンペーパーでよくない?)にも辟易していた。
自分に対して「家事できないなんてお前はクソだな」と思うのがずっと当たり前になってた。その自分の声を自分がちゃんと聞いてずっとイライラしてた。だから他人からの「家事ができてないよ」という指摘に過敏に反応する。
母とはもう一緒に暮らしてないし会っていないのに、脳内ではつねにお母さんに言われていたような罵詈雑言を自分で自分に浴びせていたわけです。
どんな片づけ本、収納本に書いてあるのも、「自分が快適かどうかがすべての基準」「自分のお気に入りの空間を作っていいんだよ」ということである。
持っておいていたほうがいいんじゃないかとか、そういうのをとっぱらって、本当にいま自分が必要なものだけで暮らしましょうっていうこと。自分の中の軸を、「世間」からを「自分」に合わせる作業なんだなと思う。
私はずっと、自分の中の家事の軸を「世間」に合わせてた。女だから肉じゃが作れなきゃいけないとか、洗濯のしかたにこだわりがなきゃいけないとか、そういうの。女だからやらなきゃいけないって思ってるんだけど、やりたいとか楽しいっていう気持ちがそもそもないから、どこにモチベーションを持てばいいか分からなかった。
栗原はるみは未だになんだか苦手だけど、「自分」に軸を合わせる作業は心地良い。超ド級に大嫌いだった片づけ本や収納本が、癒やしの本になってきた。あふれ出すような数がすでに出ているのに、毎月どんどんどんどん新刊が出る。私もどんどん追いかける。きっと、そうやって買ってる人、おそらくほとんどが女性、があふれるようにいるってことだと思う。
それくらい、女の人は、「世間」に軸を合わせられる機会が多いんじゃないかと思う。私だけじゃなく。
最近、よく思い出すことがある。カーテンのこと。
19歳くらいの頃、周りの友達が一人暮らしをし始めた。みんながみんな言ってたのは「カーテンはピンクとか女っぽい色にしちゃだめ」ってこと。
「女の一人暮らしってバレて、狙われるから」
みんな、黒とか茶色とかにしてた。友達の家に行ったら、オレンジ色のカーテンがついていて「あぶないからグレーとかに替えろ」ってみんなで言ったこともあった。
私も初めて一人暮らししたとき、これでやっと自分の快適な空間が得られるってことがうれしかったけど、カーテンだけは当然のごとく黒にした。
部屋のかなりの面積を占めるカーテンの色が好きに選べない、女という性。ベランダに男物の下着を干しとけっていうのもよくあった。なんで必要ないものを自分が借りてるスペースにぶら下げなきゃいけないんだろう。
片づけ本や収納本は、「自分の必要なモノ、気に入ったものの中だけで暮らしていいんだよ」ということがしつこくしつこく書いてある。それでももっともっと、それを読みたいと思う私がいる。たぶん、劇場に出演させられたりカーテンを好きな色にできなかったあの頃の理不尽を埋めるにはまだまだ足りないんだと思う。
そんなふうにいま、<2>の勉強の真っ最中である。