「あさが来た」は、みんな見てるはずなのに、話題にのぼらない。「『純と愛』って誰も見てないんだよね。私はがんばって最後まで見るわ」「『あまちゃん』見てないの?!なんで?!」「『ごちそうさん』はまあまあだね」「『マッサン』ってさあ」「『アンと花子』は途中でやめたわ」「『まれ』見てる?『純と愛』以来だよね」などなど、私の周りは、自分が見てようが見てなかろうが、その時やってる朝ドラの話題が一度は出るし、面白くてもつまんなくても、見てる人同士で盛り上がる。
でも「あさが来た」は、感想を誰かと話したことがない。始まってから朝ドラ友達とは何人も会ってるのに。
「あさが来た」はソツがなさすぎるからかなと思う。見ていてツッコミようがないっていうか、朝ドラとして完璧すぎて、何も感想が出てこないっていうか。だからと言ってつまらないわけじゃなくて、でもすっごい興奮、ワクワクするわけでもないし(私は)、でも一応続きは気になる。
個人的には生々しいのが好きなので、不倫したり幼なじみのお母さんとギスギスしてた糸子の物語(「カーネーション」)のほうが圧倒的に好みだなと思う。「あさが来た」は、女が楽しいファンタジードラマ感がすごすぎて、そのへんがちょっとノレないっていうか、だって新次郎がちょっと出来過ぎだろう、と思う。あんな・・・あんな顔がよくて、ちゃらんぽらんだけど要所要所で気が利いて役にも立って、みんなに優しくて、妻の長所を認めて伸ばす努力までしたり、そんで裏では妻に恋い焦がれ、しかも自制心まである。
さらに主人公はそんな夫の一途さに無頓着で、ただモテる、みたいな? 本人は仕事と結婚した的な感じだけど、五代様も? あさのことを特別に想ってる、みたいな? だけどモテてる自覚がない、みたいな? おいおい、いいなあ、おい!
中学の時、友人がコバルト文庫の「まんが家マリナ」シリーズを熱心に読んでいて、「そんなに面白いの?」と聞くと、「なぜか主人公が次から次へとかっこいい人にモテるのがたまんないんだよ」と言っていた。私はマリナシリーズを読んだことがないけど、「あさが来た」を見ていると、あの友人も見ているかなあと毎朝のように思う。
とりあえず今まで見ていたが、最新話(1/7現在)で、若い女中のふゆに抱いてくれみたいなことを言われた新次郎が「そんなこと言うもんやない」的なことを言い、「自分を大事にしないとあきません」的なことを言い、さらに「『私みたいなもん』という言い方は金輪際おやめなさい。自信を持って生きていくんや」的なことを言って、自分の上着をふゆにかけて去ったというシーンで、初めて「あさが来た」で涙が出た。
新次郎の優しさ、すばらしさ、ふゆの切なさ、そしてデリカシーに長けた亀助の言動に泣けたんだけど、現実ではこんな男たちって、一カ所に揃ってない気がする。ていうか、自分の涙は、こんな男ばっかりの世界だったらいいのにな~っていう涙でもあったのではないかと思う。
ネットで「実際は、広岡浅子の夫は女中を妾にした」というような記事を読んだ。広岡浅子の時代って、姦通罪(夫以外の男と性交をしたら追放刑か死刑、相手の男も追放刑か死刑。この二人は絶対に結婚できない。現場に鉢合わせた時に夫が二人を殺しても夫は無罪、夫が他の女とするのも無罪というめちゃくちゃな刑法)があった時だから、「あさが来た」を見てると、こんな感じじゃないだろう・・・とすごく思う。
実際、今よりも男が偉かった、という描写はちゃんと入るし、ナレーションで「妾がいるのは、この時代では普通のことだったのでございます」とか穏やかに説明が入る。でもそれはドラマにとってマイナスな要素にはなっていなくて、昔のめちゃくちゃなジェンダー制度も「あさが来た」ではファンタジーを盛り上げる要素として上手く練り込まれている。朝から深く考えさせられたり重たい気持ちにならないような話作りを徹底している。その迷いのなさが気持ちいい。
あさの働き方や周りの環境や理解や協力は、2016年の女から見ても、ものすごく斬新で新鋭的で理想的で、まさに最先端である。「こんな感じじゃなさすぎる」のは、広岡浅子の時代から今も変わってない。だから逆に、あさのファンタジーストーリーが違和感なく見れるのかもしれない。