ある人(仮にAとする)と付き合えるかどうか、ということを判断する時、何を基準にするか。
答えはひとつ、セックスできそうか否かである。もちろん、それだけが全てではないとする意見もごもっともなので、私の価値観の積み重ねが最終的にそういう基準に行きついただけであるとお断りしておく。
Aの容姿が好きだ。Aとは価値観が合う。Aと一緒にいると安心する。Aと手を繋ぎたい。
顔だけが好き、とか、手が好き、とか、パーツ毎の趣味はあっても、全身脱いでしまった姿を眺めたときに好きだと思えなければ、外見に対する好意はどこかで破綻してしまう。お互いが思うように振る舞って、相手に不快感を与えない間柄は価値観が一致していると思っていたし、長時間コミュニケーションをとっていく上で絶対に必要なことだとも思っていた。付き合っているのなら、コミュニケーションの大きな括りに性行為が含まれるのは必然だった。手を繋ぐと相性がわかると誰かが言っていたが、手を繋いで嫌じゃなければ、他のどこが触れても嫌じゃないだろう。
体育会系のサークルにいたことは以前お話した通りである。組手のようなものをする時には文字通り肌が触れ合うので、私は投げ飛ばされたり投げ飛ばしたりを繰り返しながら、そんなことばかり考えていた。とても人には言えない。
さて、いざお見合いの話がトントン拍子に進み、こちらの釣書も先方に渡り、先方の釣書を恵美子さん経由で入手したある日、私は某ターミナル駅から指定された病院に向かって、スーツ姿でズンズン歩いていた。
2月の都内はパンツスーツでも普通に極寒だったが、訪問先でコートの始末が面倒なので、基本的にマフラーのみだった。パンツスーツの裾に隠してレッグウォーマーを履いていたし、水分を吸収して線維が発熱するという触れ込みの防寒ハイネックを着ているので耐えられない程ではない。
色気の欠片もない銀行指定の営業鞄の中には、債券の購入に必要な書類一式が、書き損じの為の予備も含めて2部ずつ入っている。恵美子さんが購入したものと同じ銘柄であり、初動が遅かった他店の枠を課長がとんびのようにかっさらったのである。
「うちの孫も買うわ」と恵美子さんに言われた時に、初顔合わせは債券の購入手続兼、という具合になるんだろうなと思っていたので、「初顔合わせなんだけれどね、あの子、仕事が忙しいから、今回の手続で職場まで行ってやってくれないかしら?」と、言う恵美子さんのお申し出は有難かった。第一、仕事中に仕事以外のことをしているという罪悪感が薄れた。その日も、恵美子さん自身の債券購入手続という名目で訪問していたが、マンションに着くなりの第一声は「ミナトちゃん、釣書持ってきた?」であった。
指定された場所は大学病院で、ここに来て初めて恵美子さんは「うちの孫、医者なの」と言い、あちら側の釣書を開いて見せた。
「まぁ」と言ったきり、私の脳内では「マジか」と「こりゃラッキー」という感想がグルグルしていた。
同時に、口からは「優秀なお孫さんなんですねぇ」という文言が再生されていた。
銀行は基本的に顧客の新規開拓をしない。証券会社と違って、飛び込みの営業というような文化は廃れてしまった。飛び込みの営業が出来ないとなると、新しい先を探す手段はご紹介ということになる。貯蓄やら投資やらの話をできる間柄というのは限られるので、大体がご家族を紹介、ということになる。恵美子さんの所には私を含め、複数の金融機関の営業が出入していたので、孫が医者だとちょっと口を滑らしてしまうだけで、紹介してくださいと営業に泣きつかれることは明らかだ。それで秘匿扱いだったのだろうか? というかそんなおいしい情報、前任の担当者は本当に知らなかったんだろうか……。「さぁどうだ、これをご覧なさい」とばかりに釣書の職歴の項を指さしている恵美子さんを見ていると、もう今更どうにでもなれという感じがして、私は釣書の黒々とした筆文字を眺めた。
なお、釣書には、よくわからない点がふたつあった。
家族構成を見ると、明らかに長男なのに、本人の名前が「しろう」だった。漢字は「仕郎」である。お父さんの名前が「三郎」なので、「やまださぶろう」「やまだしろう」と振り仮名だけ見ると兄弟のようだった。それから、日付と年齢の項の数字が、他の文字と少し違うような気がした。こちらの違和感の正体はすぐにわかった。どうやら、原本をコピーして、違和感のある部分だけ書き直したようである。日付だけでなく、年号の下まで訂正されていたので、少なくともここ数日以内に書かれた釣書というわけではなさそうだ。これはひょっとすると、何回もお見合いをしているらしい、ということがわかり、私はすっかり気が楽になった。
待ち合わせ場所は、入院患者棟併設のレストラン前だった。
時間ぴったりになっても山田仕郎は現れない。恵美子さん経由で携帯の番号も教えてあるが、特に何の連絡もない。レストランに入っていく入院患者とその家族らはゆっくりとした足取りだったが、同じ空間を行き来する病院側の人々は基本的に早足である。山田仕郎も恐らくご多忙なのであろう。
釣書と一緒に写真も貰っていたが、改めて思い出そうとしても正確な顔が思い浮かばない。営業としての致命的な欠陥で、私は人の顔と名前が全然覚えられないのである。ただ、写真を前に、珍しく目が泳いでいる恵美子さんに「これはかなり前の写真なのよねぇ、あの子忙しいから、最近の写真が全然ないのよ、今は、ちょっと、雰囲気が違うかしらねぇ」と言われていたので、太るか禿げるかして、時の流れを感じさせる変貌を遂げていることは想像に難くない。
病院内だし下手に電話して注意されるよりも大人しくしてるか、と待つこと更に15分。山田仕郎は現れた。
エレベーターを出た瞬間、こちらに気付いた様子だったが、特に走るでもなく、笑顔を浮かべるでもない。こちらから歩み寄って名乗り、確認をすると確かに本人である。ポケットをゴソゴソしているので何だろうと思ったら、剥き出しで突っ込んできたらしい名刺が一枚出てきて、片手でひょいと渡された。「山田仕郎」の上に「医学博士」の文字があるが、白衣を着ていないからか、あまり医者らしくない。よくドラマで見る、白衣の下に着ているVネックのアレである。白衣があればそれっぽく見えるのだろうか、と思ったが、いや、糖尿病内科にかかっている患者です、と自己紹介された方がしっくりくるかも知れない、と思い直した。両国辺りでブラブラしていれば、50人くらい似たような人に出会いそうだった。
他の顧客と喫茶店で待ち合わせる時のようにコーヒーを注文し、にこやかに面談時間を確認したところ「そんなに時間はありません」等と言うので、じゃあ早速ですがお手続きとらせていただきます、と宣言し、速やかに債券の購入手続きを進めた。
何枚もある書類に署名を貰いながら、果たしてこの男とセックスできるだろうか、と思い巡らすが、具体的なことが何も浮かんでこない。積極的にしたい、という気も起こらないけれど、絶対にしたくない、という感じでもない。捺印箇所の確認をして印鑑を拭きながら、この山田仕郎の顔は表情筋と言うものをほとんど感じさせないけれど、私と同様にゲスなことを考えていたら、まだ面白いな、と思った。でも無表情からは何も読み取れず、そんなことさえ考えるに値しない存在としての私、という可能性も十分すぎるほどにあった。
何にせよ、ここで成約した実績だけは事実である。失うものは特にない。