いまひとつ手応えのない山田仕郎氏との初顔合わせ(と言う名の債券購入手続き)から数日。
元彼のお花ちゃんは、相変わらずなしのつぶてである。メールも電話もない。これまではほぼ毎日「デブ」「ブタ」「ババァ」から始まるコミュニケーションがあったので、私は不穏な気持ちになった。
お花ちゃんと同様、恵美子さんからも山田仕郎からも特に何の連絡もなかった。こちらに関しては、何の不穏さも感じず、いたって平穏な気持ちで構えていた。恵美子さんとは、週明けに面談のお約束が取り付けてあったからだ。
債券の購入手続きの際には、購入代金を証券会社に送金しなければならず、私は山田仕郎の通帳を預かっていた。素晴らしい額の残高が記載された通帳だったが、貯蓄用の通帳らしく、口座作成の数日後、一括で他行から振り込まれた後は普通預金口座の微々たる利息が何度かついているだけで、何の情報もない。入金も出金もない。金額的には潤っていても、情報的には無味乾燥とした通帳だった。
営業デビューした当時、上司に「通帳をお預かりしたら、入出金の履歴を頭に叩き込め」と言われた。お金の流れが、そのお客様の個性だからだ。そこから会話のネタとニーズを掴むのが一番手っ取り早く、確実であった。
例えば、「パンダネット」という名義で毎月引き落とされていればそのお客様は囲碁が趣味だし、不動産会社から毎月お金が入っていればお住まいの他に賃料収入があるのだろうし、決まった人に毎月まとまったお金を送金していれば、税金対策の生前贈与である。そうしたら、素知らぬ顔で囲碁好きの上司の話をちょこっとして、お客様からご自身の趣味の話を聞き出し、適度に場が温まったらその後は賃料収入で運用する話でも、大規模修繕に備えて積み立てする話でも、税金対策としての運用商品の話でも、いくらでも話ができる。
だが、山田仕郎の通帳には何の記載もない。とりあえず、暦をさかのぼって調べると、入金された日は平日だった。本人が窓口に行って手続きしたのだろうが、もしかしたら恵美子さんが代わりに手続きした可能性もゼロではない。そうなると、四十近い山田仕郎は口座管理をお祖母ちゃんである恵美子さんに任せていることになる。今回の債券購入だって、恵美子さんが決めてしまったようなものだし。まあ、山田仕郎にも、断ることは出来たはずだけれど。
お客様からお預かりした通帳は、課員めいめいの管理簿で毎日管理されている。銀行の中で夕方、預かった通帳を眺めていると、山田仕郎のぼんやりとした無表情な顔が何となく思い出されるようだった。
その日の帰り、ロビン先輩とマミーポコと三人でとんかつを食べに行った。
ロビン先輩もマミーポコも同じ課の先輩で、女性である。もちろん、当人の前ではちゃんと名前にしかるべき尊称を付けて呼んでいる。お花ちゃんに会社の話をしている時に「登場人物が多すぎて意味がわからない」と言われ、諸先輩方の特徴で呼び始めたらそのまま脳内で定着してしまった。ロビン先輩は某国民的海賊漫画の登場人物にそっくりなので、その人物名をそのまま拝借してロビン先輩と呼んでおり、もう一人はおむつのCMに出てくる赤ちゃんにそっくりな童顔だったので、やはり勝手にマミーポコである。
マミーポコは先月結婚したばかりの新婚だった。とてもロマンティックで甘く美しい結婚式だった。二人の馴れ初めを完全再現したVTRはお花あり、星空あり、ウィットに富んだ会話あり、高級ホテルのスイートルームありの、ロマンチシズムに彩られた世界だった。円卓の隅に腰かけ、暗がりで幸せなお二人の馴れ初めを追体験した私は、白いドレスに包まれたマミーポコとの間に何億光年の隔たりを感じて気が遠くなった。
式の終盤ではブーケトスの代わりのシャレた趣向としてブロッコリートスが行わた。壊れやすい花嫁さんのブーケは繊細な芸術ゆえ投げるに忍びないので、頑丈なブロッコリーを代替品として放り投げるのである。宙を舞ったブロッコリーは見事私の手の中に落ちてきて、更に気が遠くなった。
青々としたブロッコリーは私が握りしめているよりも、百貨店の地下で贈答用の桐箱に入っていた方がいいくらい堂々として立派で、可憐なウエディングブーケとの対比が眩しすぎて私はどんどん気が遠くなっていった。マミーポコは体が弱く、よく朝礼中に貧血で倒れたが、私は元来丈夫なので、どれだけ気が遠くなっても実際に気を失うことはない。
あの時のブロッコリーは、確実に私に語りかけていた。「お前には無理だよ」と。
そんなマミーポコから、「相談があるの」と召集があったのである。
新婚のうちは甘酸っぱい喧嘩も前戯のうち、と一人で気が遠くなっていた私は正直なところご遠慮申し上げたかったのだが、まぁそうもいかず、その夜、私はロビン先輩とマミーポコと三人でとんかつ屋さんのテーブル席に座っていた。
ビールが来てもマミーポコは両手でグラスを持ってちびちびと飲むだけで、相談とやらが始まらない。そのうち、ロビン先輩が課長の話を始めた。
「菊池ちゃん、また今日も課長にボディータッチされてたじゃない?」
「ボディータッチですか?」
「そおよぉ、あの、グータッチとかいうやつ!」
「あっ、あぁアレですかぁ」
記憶が正しければ、ロビン先輩も、昨日していた筈である。
「あんなの、ボディータッチに入りませんよぉ」と言った私の言葉は本心だったのだが、ロビン先輩は「入るわよ!」とバッサリ切り捨てた。
「イヤならイヤってはっきり言わなきゃ駄目よ!」と息巻くロビン先輩は、そう言えば課長にも「やだぁ、グータッチなんて、課長、おじさんみたいじゃないですかぁ」と抗議していた気もするが、なんだかんだ押し切られる形で結局タッチされていた。廃止までは長期戦の構えである。
と、唐突にマミーポコが口を開いた。
「いいですよね、言いたいことはっきり言えて……」
瞬間、マミーポコのお話はまだプロローグなのに、もう既に話の終わりまで見えて気がして何もかも面倒になった。タイミングよく運ばれてきた揚げたてのとんかつをお盆ごと持って、そのまま茶運び人形のように夜の街を疾走したくなった。マミーポコは夫に言いたいことが言えないようだ。
「どうしたの?」と尋ねるロビン先輩は優しい。
「最近、旦那君の目が怖くて」
「こわい」と私は復唱し、「結婚式でお目にかかった時は、とっても優しそうでしたよー?」と言ってみた。だが、普段恐ろしい人でもニコニコしているのが結婚式である。人生の晴れの舞台で怖い人アピールをしている新郎なんて見たことがないので、私の反応はバカ丸出しであった。
「監視されてる気がするの」とマミーポコは続けた。
「旦那君は一人暮らしが長いでしょ、あっ、高校から一人暮らししてたから、お洗濯もお料理も、一通りのことは出来ちゃうのね。それで、私は結婚するまで一人暮らししたことないでしょ、だから、家の中でやってること、ひとつひとつを審査されてるような気がして……」
マミーポコは語り終わるとお味噌汁の蓋をとり、一口啜った。私もそれに倣った。ロビン先輩はというと、とっくにとんかつを食べ始めていた。
その後も、「旦那君は何も言ってこないけれど、視線が審査員のようで辛い」という話が続いた。
もし自分が同じ立場だったら、早々に採点用の札を工作するかな、と思う。
あの、棒の先に「10点」とか「5点」とかついている、あれである。スーパーのチラシがあれば大体のものは作れる。細長く丸めて棒を作り、裏が白いチラシを丸くくりぬいて貼り付ければいい。面倒なら買ってくればいい。それで、「ほらっ、なんか言いたそうだから、採点制にしよう、家事を!」と持ちかけるだろう。一方的に採点されるのは悔しいので、こちらもパンツの脱ぎ方とか人前で鼻の穴に指を突っ込む癖とかを採点してあげればいい。これは平和だ。
採点制を導入してはどうでしょう、と提案してみたが、マミーポコの「そんなこととてもできない……」という力ない声により却下されてしまった。
ロビン先輩は終始「気にしすぎよぉ」と言い、「新婚さんだから、旦那さんも奥さんのこと見ていたんじゃない?」という結論になっていた。マミーポコの話は最終的に「脱衣所にゴミ箱を置きたいのだけれど、勝手にそういうものを買い足すと怒られるかもしれない」という話になっていた。
帰りの電車でいつものようにイヤホンを耳に突っ込み、爆音でメタルを聴きながら考えた。
結婚相手というものは、そんなに恐ろしいものなのだろうか。勝手にゴミ箱も設置できないくらいに。
それとも、失望される自分に耐えられないのだろうか。がっかりされることが何だと言うのだろう。人間の感情は、ある程度までなら修復可能ではないのか。
食事の席では一つも結論が出ず、結局ゴミ箱もどうするかも決まらなかった。マミーポコがゴミ箱を設置したがっているのは明白だったが、ロビン先輩と二人で賛同し、背中を押してあげても、「でも旦那君が……」となってしまうので、堂々巡りなのである。「じゃあもう、その旦那君とやらにダイレクトに言ってください。はい、おしまい!」と言ってしまえればどんなに簡単に済んだことか。
結論が出ていて、背中を押して欲しいだけなら相談とは言えない。少なくとも、メールアドレスも交換していないような同僚には持ちかけるべきではない。
次から次へと流れる爆音の中で目を閉じ、私は「ああはなるまい」と強く思っていた。
もし、好き同士で結婚してあんな姿をさらすくらいなら、私は一人でも生きていける人と結婚する。一人でも生きていける自分になって、同じように一人でも生きていける人間と結婚する。
耳元ではずっと前に解散したメタルバンドのボーカルが「You are the only one for me.」と叫んでいたが、私は顔を歪め「そんなわけあるかい」と思った。