「ところでね、ミナトちゃん」と、恵美子さんは三杯目のお茶を注ぎながら、にこやかに話題を変えた。
「あなた、お花さんと進展あったのよね?」
お花ちゃんの個人情報は大概ダダ漏れであった。
恵美子さんもお花ちゃんも、どちらもtwitterもfacebookもやらないし、年齢、性別、生活圏、資産状況どれをとっても何一つ接点がない。例えば、恵美子さんは新宿の雑居ビルに入ったレコードショップには行かないし、お花ちゃんは銀座の百貨店には行かない。知り合う機会が限りなくゼロに近い二人は、お互いに存在していないのとほぼ同義である。
ただ、お年を召した恵美子さんが「おはなさん」と言うと、二人共通の知り合いのお婆さんの話をしているような趣きがあった。
「別れちゃったんです」
「まぁ」
恵美子さんは大して驚いた様子でもなくそう呟き、ポットを置いた。ミナトちゃん泣くかしら、と気遣うような眼差しを一瞬こちらに向けたが、私がニコニコしているので、レースのティッシュカバーを引き寄せようとしてティッシュの引き出し口に指をかけたまま止まっている。
「恵美子さん、よくおっしゃってたじゃないですか、中途半端はダメだって、結婚しようって自分から言わなきゃダメよ、って。もう何回もプロポーズしてるんで、そろそろ白黒はっきりしなきゃなって思って、結婚してくれないなら婚活するって宣言したら、頑張れって逆に応援されちゃいました」
私は意識してトホホ顔を浮かべ、脳内で「それも、18時間くらい前の出来事ですがね、アハハ」という文言を考えたが、口にするのは控えた。
「婚活って言うのは、具体的にどうするのかしら?」
「そうですねぇ……」
私は左上の方をぼんやりと眺めながら、グループ会社の社員のみが登録できる結婚相談所の存在と、今朝見た婚活サイトの新聞広告をぼんやりと考えた。
「心機一転、お見合いでもしますかねぇ」
「ミナトちゃん」
そう言った、恵美子さんの声にはいつになく力がこもっていた。
お年を召した恵美子さんの、幾重にも皺を折り重ねたような目もとが、先ほどとは違って、目をぱっちりと見開いている為か明かりが反射してキラキラしていた。この表情は、今日、他のお宅で何度か見ている気がした。
新しいもの、儲かりそうな運用話になった時の、お客様の目である。
「うちの孫、どうかしら。今38歳よ」
結果的に見て、恵美子さんが「運用相談が佳境にさしかかったタイミングで商品を決める時のお客様の顔」をしていたことが、(私にとっては)プラスに働いた。考えるより先に口がすらすらと動いた。
「そんな、本当に有難いお話ですけれど、お孫さんが今までおひとりだったのは、どなたか心に決めた方がいらしたからじゃないんですか」
言いながら、それは私自身の話だと気がついたが、その点に関しては特に言及されなかった。
「いない、いない。心に決めた人なんていないわよ。そもそも、あの子に彼女がいた筈ないわ」
「そうなんですか?」と私はにっこりし、「それなら、よろしくお願いいたします」と言って頭を下げた。
恵美子さんの唐突なお申し出から、話がまとまるまで、1分もかからなかった。
帰り道、支店まで自転車をこぎながら考えた。
もしこれが少女漫画だったら、紹介される孫はこちらが腰を抜かすほどのイケメンであろう。
もうちょっと対象年齢が上の女性向け漫画だったら、お花ちゃんが銀行の前で待っている。
あるいは、恵美子さんの前では平静を装っていた私が、帰りに自転車で転んだりするのだろう。転んで地面に座ったまま泣いて、それで感情の全てがリセットされる。
だが、マンションのエントランスで自転車に乗り損なうこともなかったし、ましてや転ぶこともなかった。
お花ちゃんに「婚活をする」と宣言して、確かに一歩進んだ。
けれど、恐ろしいまでに静かな気分だった。一見、凪のようであった。本当に僅かに、かすかな高揚感を頬に感じていたけれど、それは今日の分の目標を達成したからだろうと思った。
そうして路上に出て最初に考えたことは、出掛けにホワイトボードに書き込んでおいた帰社予定時刻をとうに過ぎていたので、支店に電話を入れることだった。別に指は震えていなかったし、番号を押し間違うこともない。
連絡がないことで不機嫌な様子の課長に「遅くなってすいません。需要申告の枠、いただいた分は全額埋まりましたぁ」といつも通りの間の抜けた声で報告した。「よっし、気をつけてな! 帰ったらグータッチな!」とご機嫌になったことを確認して、電話を切る。課長が言っていたグータッチというのは、何かいいことがあった時、大体は、小刻みの目標を達成した時に、拳と拳をコツンと合わせる、という、今の課長が課員に浸透させた儀式である。台東区の裏路地を自転車で走り抜けながら、私は、よっしゃあ課長とグータッチだぁ、とぼんやり思った。課長もよくわかっていて、私以上課長未満の立場の課員が見ている目の前でそういった儀式的なことをするのが常だった。悪い気分ではない。
個人携帯の方には、お花ちゃんからの連絡はない。これが現実である。恵美子さん以下、当の孫本人以外の全員と会ったことがあるので、本人に会ったことが無くとも、何となくまだ見ぬ見合い相手の全体像は想像がついた。そもそもあの場ではほぼ即答していたが、孫本人が全く関知しない世界で話を進めているので、まあ確度はCプラスくらいかな、とも思った。
株と一緒なのだ。暴落する前に売り抜けることが肝要で、銘柄ごとに違いはあれど、菊池ミナトという銘柄にはまだ市場価値があるということなんだ、と思った。これまで求める側にばかりいたので、求められることなど考えたことがなかった。
求められるというのは、おそろしいことだ、と漠然と思った。