そのご婦人は、恵美子さんと言った。大名屋敷の庭だけ残して屋敷跡に建てられたというマンションの、6階の一室に一人で住んでいた。同じ6階の隣の部屋には娘夫婦と孫が住んでおり、夫婦共に定年退職の年齢を過ぎているが、前任の担当者から引き継いで3年間、お嬢さん(と言っても還暦を過ぎている)のご主人には一度もお目にかかったことがない。同じマンションの4階にもう一室あり、ご主人の方はそちらの部屋にいることが多いのだと聞かされていた。不思議な話だったが、よくある話だった。
マンションの入り口は、大通りから一本入った道に面している。延々と続く石塀の途切れたところに敷地面積に対してやけにこじんまりとした門があって、目線の高さよりすこし低い位置に控えめなサイズでマンション名が掲げられている。
門のところで自転車を降りてエントランスに続く石畳を自転車を押しながら歩いていると、管理人さんが植え込みに水をやっていた。そこら一帯はくちなしである。管理人の女性はカラカラというタイヤの音に気づいた様子で水やりの手を一旦止め、片手を振って「あら銀行屋さん」と愛想よく笑った。
「どうも、こんにちは」
「6階でしょ?」
「うふふ」
基本的に、取引先情報は口外禁止である。
「おばあちゃん、お昼すぎにお菓子買いに出かけたのよ。どちらまで、って聞いたら、銀行さん来るから、って。話は聞いてるから、自転車そこの隅っこに停めときなさいよ。見といてあげるから」
「いつもすいませんねぇ」
古いマンションで、来客者用の駐輪スペースがないのだった。庭に適当に停めておくと、景観を損なうからか、マンションの住民の方によって自転車が移動させられていることもしばしば、と、前任の担当者から教えられており、その二つ上の先輩は上司から営業車を借りて訪問していたようだった。私は管理人さんと仲良くなる方法をとった。
「これ、たしかお花が咲きましたよね?」
自転車の鍵をかけながら話しかけると、管理人さんは、そうそう、と頷きながらにっこり笑った。
「くちなしって言うのよ、いい匂いがするよ」
「楽しみですねぇ」
くちなしの分厚くてツヤのある葉からぽたぽたと滴が落ちて、濡れて色が濃くなった石畳に水溜りをつくっていた。
花の時期は6、7月の初夏であり、白い花はすぐに変色してしまう。匂うのは咲き初めの頃だけである。葉影に高確率で芋虫が潜んでいることが多く、匂いがギリギリわかる距離までしか近づかないことに決めている。
「いつもありがとうございます」
そう言って会釈すると、管理人さんは「お仕事、いってらっしゃい」と言いながらホースの水をシャワーに変えて、虹を作った。
恵美子さんの部屋は6階の角部屋である。
マンションの内廊下を進んだ突き当りのところに部屋があって、呼び鈴の上に不思議なものが置いてある。魚の頭が刺してある枯れ枝だ。初めて見た日に「あのクリスマスオーナメントみたいなの何ですか」と前任に聞いたものの「なんだそりゃ、気にしたことねえよ」と、にべもなく返され、それならば、と担当先の他のご婦人のお客様に聞いて回った。皆様ご存じで、行く先々で「節分に飾る魔よけのヒイラギイワシ」と教わった。諸説あったが恵美子さんのお宅では一年中飾ってあるので、呼び鈴を押す時にはいつでも恨めし気な鰯と目が合うのである。私は善人ではないが魔物でもない。物言わぬ鰯を見つめながらボタンを押すと、ブーという音がして程無く、「開いてますよぉ」と声がした。
「まぁまぁまぁ、ミナトちゃん」
ドアを開けると、ニコニコした恵美子さんが声を張り上げている。玄関からまっすぐ伸びた廊下の突き当りから顔をのぞかせて、「早くいらっしゃい」と手をひらひらさせた。
「自転車ちゃんと停められたかしら?」
「あっ、はい、管理人さんが……あの、ご存じで、いつものとこに。ありがとうございましたぁ」
廊下からダイニングに続くドアの入り口でぴょこんとお辞儀すると、恵美子さんは満足げに頷いた。
「ほらほら、早くおかけなさい」
食卓の隅の椅子が少し引いてあり、そこが私の席であった。
確固たる孫ポジションをキープする、という手法が、私が辿り着いた営業スタイルであった。
孫ポジションに納まってしまうと、「ミナトちゃんは本当の家族みたいね」という称号を得ることになる。
けれどもお客様と私は本当の家族ではない。あくまでも私が「家族みたい」に擬態しているだけであり、お客様と私の間には、銀行口座と預金と帰属意識という、海よりも深く山よりも高い、壁というか溝というか、ともかく激しい隔たりがある。枝そっくりの芋虫が、本当は枝ではないのと同じである。
複数の顧客先で、ご婦人方に対し「孫的な何か」に擬態した私は、だいたい月に2回くらいご自宅にお邪魔して、滞在時間の八割くらいは雑談をし、行く先々で嫁の愚痴や婿の愚痴や孫の愚痴やご近所の愚痴を徹底して聞き、やれ誰に遺産をやりたくないの、やれ不動産はどうしたいの、といった話にただひたすらじっと耳を傾けた。こちらから発する単語は「まぁ」と「そうなんですかぁ」と「すごーい」だけである。ご婦人方がご不満を語ることに飽きると、適当に私自身のダメな話をして回った。そういう時にお花ちゃんの存在は非常に役に立った。
雑談タイムが終わると、というか雑談にお客様が満足すると、大概、「じゃあミナトちゃんのお仕事の話をしましょうか」となる。そこからが残りの二割で、定期預金の利率の話やら市況概況やら株やら為替やらの話をするのである。
お客様は皆、「まるっと消えてしまったからといって、別に生活には支障がない資金」という予算枠があり、その中で運用を楽しんでおられた。私は情報を提供し、お客様自身のご決断に沿って手続きを進める。
恵美子さんは過度なリスクはとりたくないけれど、定期預金の利率では全然満足できない、という、大多数を占めるタイプのリスク許容度であり、今朝がたの新聞に公告が出た債券は、ちょうど恵美子さんのリスク許容度にぴったり合致するようなものであった。
いつもの手順を踏んでお仕事の話は終わったが、その日は少し違った。
お仕事の話が終わった後、いつもなら「あらこんな時間、遅くなっちゃったわね」と締めに入る恵美子さんが、「ところでね」とまた雑談フェイズに戻っていったのである。