去年の秋に、今の家に越してきたばかりで心持ち浮かれていた頃、ダンボールの上で携帯電話が鳴ったので、名前の表示を見ると、知っているっぽい名前で(それはそうだろうけど)、けれどその人の顔が出てこないので、つい出てみたら、それはパンツさんで、わかった瞬間、崩れ落ちるくらい電話に出たことを後悔したことがありました。
べつに脅迫されるわけでもなんでもないのですが、私はこの人のさびしんぼうオーラみたいなものが苦手なのです。ということを、かつて身にしみたはずなのに、環境が変わり月日もたつと、こうして、忘れた頃にやってくるものでしょうか。
だったら、番号を消去しておけばよかったか、とあとで思いましたが、それはそれで、わからずに出てしまうかもしれないし、と不安になります。
誰から掛かってきているか、表示画面を見つめるほどにはわかっていて、でも出ません、という方法もこの世にはあるはずです。
パンツさんは、私が二丁目で働き始めてすぐの頃に(なので、もう10年くらい前)、よくパンツ(下着)を買ってくれた人です。お客さんというより、私を気に入ってくれていた人で、他には、お菓子やお弁当を差し入れてくれて、時々食事をしました。
年は10ほど離れていたでしょうか、フルネームも年齢も知りません。
お酒を飲まない人なので、昼間に私の働いていたビデオショップに顔を出したり、時々男の子を買って連れて歩いたりといった、二丁目使いをしているようでした。
それなのに、「二丁目には変な奴が多くて嫌だ」と街ごとけなしていました。
私は私で、基本的に苦手な人なのに、くれるものは貰ってしまうという、だらしない関係を続けていました。
久しぶりに出てしまった電話でパンツさんは、今横浜に住んでいると言って、二丁目には行かなくなった、あそこって変な奴が多いでしょ、とまた同じことを繰り返しました。
君は最近どうしてるの? と聞かれて、そういえば彼には何も言ってなかったわ、と思って、いま、大阪にいるの、と言うと少し驚いた様子が伝わりました。
二丁目で、私がビデオショップを辞めたことくらいは聞いていたかもしれません。
そのあと、「彼氏は元気なの?」と、これもそういえば前からよくしてくる質問で、彼氏がいるともいないとも言ってないし、実際いないことのほうが多い私に、いると確定して聞いてくるのが、本当に気持ち悪くて、これはダラダラしていてはいけない、とそれからはすべて、テキパキと事実のみをお答えする方向に切り替えて、答えたくないことは答えない、と毅然としてみたら、まもなく電話が終わりました。
これからは出ないようにしなくては・・、とあらためて携帯電話に誓いました。
パンツさんのことを思い出したのは、田房永子さんのコラムを読んだときでした(『どぶろっくと痴漢の関係』、ラブピースクラブコラム、女印良品より)。
「痴漢する男にとっては、被害者が自分の世界に入ってきたことになる」という話を、その男が持っている「『膜』の中のストーリー」として説明していく展開は驚きで、それであの態度だったんだわ、と、なんだかいろんな人たちの「態度」が走馬灯のようによぎって、死ぬんじゃないかと思いました。
しばらくして息を吹き返したあとに、目に浮かんだのは、二丁目祭り(という夏祭りがあります)の雑踏の中で、一人ポツンと立っていたパンツさんの姿でした。
ずっと不思議だったのは、パンツさんの態度でした。私や二丁目という街に対して(並べることかしら・・)、偉そうにするか卑屈になるかで、その繰り返しは、ずっと観察していても理解が出来ませんでした。
この人は世界をどのように見ているのか、と疑問にしたまま放っていました。それがときどき、たまらなく気持ち悪いものとして感じられるのはなんなんだろう、とか。
そうか、あれは「俺の世界」だったのか。
20歳の頃、一緒に歩いていた友人が、ポイ捨てしたので怒ったら、「ここは俺の街やからええねん」と口答えをしたことまで一緒に思い出しました。
ここは俺の世界ですから、目に映るすべての人はメッセージではなくて、他人でもなくて、「俺の世界の住人」なのです。
俺の世界の住人のことは俺が良く知っているから、あえて疑問はない。女は、男は、子どもは、年寄りは、「こういうもんである」。それから外れるやつは、よくわからないやつで、変人か敵か見極めなくてはいけない。
そいつらが俺に理解を示さない限り、俺の世界の住人と認められないから、最終的には排除する。
実際は、その『俺』が世界から外れているのに・・と思います。決めつけることが客観することになっているのかもしれません。
テレビに映る、夏の甲子園で、試合に勝ったのか、嬉しそうに駆けている高校生の男子たちを見ながら、あんなに小さかったのに、こんなに太ももとか大きくなっちゃうんだ、と、なぜか、自分の子どもだとしたら目線になってしまって、こんな太ももが暴れたら怖いから餌付けしてしまうかもしれない、と思って、でもそんなことをしていたら、他人は自分のために生きていると勘違いした太ももが『俺』になって結局は暴れるのかと、変なところでつながってしまいました。