今週の中村うさぎさんの週刊文春コラム「美魔女たちに告ぐ」を読んだ。
美魔女たちにうさぎさんは告げている。
「美魔女なんかになっても、べつに何も手に入らないわよ」と。
なぜそんな助言をするのかと言えば「美魔女たちの急先鋒で旗振ってた私には彼女たちに対して責任があるんだもん!」と。真面目過ぎるよ・・・うさぎさん。
うさぎさん曰く。
"美魔女は他者からの手放しの承認を求めている。が、実は彼女たちが求めているのは、他者の承認ではなく自己承認である。そこに気がつけば、息苦しさやもどかしさは解決するよ! 自己実現を夢見て闘い続けても虚無しかないよ!"
「死との距離が異様に近い」と書かれているうさぎさんは今、入院されているという。恐らくカラダが辛い状況で書かれているのだろう。「美魔女に告ぐ」とまるで自らの使命のよう語る調子は、とても重かった。
うさぎさんの言う「美魔女」と私の見えている「美魔女」はきっと違うのだろう。私にはうさぎさんの今回の原稿に強い違和が残った。
去年、数ヶ月間かけて「美魔女」たちを取材した。老いても”欲望されるカラダ”を目指す美魔女たち全員に、同じ質問を問いかけてきた。
「なぜあなたは美魔女なのか?」
美魔女たちの答えは、それぞれ、だったけれど、一つだけ共通していたことがある。それは「どう思われても、構わないから。だって、私の人生だから」ということ。その答えに、私は虚を突かれるような思いだったんだ。
年相応に生きて、年相応に欲望をしぼらせ、年相応に賢くなり、年相応におばちゃんになり、年相応に女から降りる。世間は女にそう教える。いつまでもセックスしたがったり、恋愛したり、きれいでいる女を、どこかで見下している。かわいいおばあちゃんは許されるが、股を広げたがるおばあちゃんは見たくないのだ。そんな世間の風に対し、美魔女たちは、「いーえ、私たちは、降りませんよ~! ずっとちやほやしていただきますよ~!」と言うのである。
それはうさぎさんのおっしゃるように「他者承認という名の自己承認」であろう。だけど、自己を深く承認できていなければ、この社会、いつまでも「美人」であり続け、パワーを持ち続けようとすることなんて、できない。自由な気持ちで快楽を追求できる人だけが、美魔女を名乗る資格があるのだと、私は彼女たちと話して思った。
「美人って楽しいんですよ」
ある美魔女が私に言ったことを、よく覚えている。
とても傲慢な言葉だと思う。そして傲慢であることは素晴らしい。なぜならば彼女たちが闘っているのは「世間の常識」であり「女とはこういうもの」という押しつけだから。若者に”いたいオバサン”と言われることも十分承知の上で、彼女たちは不適に笑うのだ。
「どう思われたって、いいですよ」と。
「美魔女の急先鋒で旗を振っていた」という、うさぎさんの言葉が私には遠い。
だって、うさぎさんが旗を振ってきた後には、美魔女はいないから。
うさぎさんが「美魔女の急先鋒」であったことなど、一度もないから。
女であることをパロディにして、自虐して、自分のイタサをさらけだし、女の意味を命がけでカラダを晒して考えてきた中村うさぎの後ろに、自由で軽く傲慢で自己承認力がめちゃくちゃ高い美魔女は、絶対に歩いていない。
うさぎさんが「急先鋒で旗を振っていた」のは、美魔女ではなく、美魔女になることもできず、自分を客観視するあまりにがんじがらめになっている、不自由で凡庸な女たち、だったはずだ。それはかつてのうさぎさん、そのものだ。
だからこそ、うさぎさんの言葉を、喉の渇きを癒すように求める女たちが、この国にはたくさんいる。中村うさぎさんの重たさと、そのあまりにもひりひりしたパロディに共感する女が多いことこそが、この国を生きる女の哀しさそのものだと、私は思う。
女とは、イタイもの。女とは、苦しいもの。女とは、、、、寂しすぎるもの、徹底的に「真実」に近づこうとして自分を切り刻むように不自由にしていく女たちは、これからこの社会で、どのように年を重ねていくだろう。美魔女にもなれない、女をパロディー化したところで虚しく、自虐の芸も賞味期限切れだとしたら、いったい・・・。あまりにも重くて、重くてたまらない気持ちになる。うさぎさんを読んだ後は、いつもそんな気持ち。