中森明菜三十周年の夏です。先月、八十年代のベストが二枚組で発売されました。これまで何枚ベストを買ったかわかりません。でもいいんです、ファンだから。少しでも彼女の生活費の足しになれば・・と半ば本気で思ってCDを買います。それにしても表舞台に出てこないのかしら・・体調が戻らないのかしら・・このまま引退してしまうのかしら・・などと憂いつつ、今年の夏もああ、なにもしなかったわと、二十五周年の森高千里も聴いています。
明菜の歌で、八十年代の中では、「SOLITUDE」(作詞 湯川れい子 作曲 タケカワユキヒデ 編曲 中村 哲 1985)という曲がたぶん一番好きなのですが、子供の頃からずっと、歌詞の意味を理解できないまま大人になりました。タイトルは「孤独」という訳で、孤独と言われても、ねぇ、とその雰囲気だけ真似して口ずさんできました。
「25階の非常口で 風に吹かれて爪を切る たそがれの街」という冒頭の風景だけを頼りに、あとはアンニュイに流すくらいなものです。
歌詞の内容は、好きな男がいます、けれど彼女は離れます、その心はどうやら失恋ではないらしい、「捜さないでね 醒めちゃいないわ 誰よりも愛してる そう云いきれるわ」。なのになんで離れちゃうの、と理解不能でした。
というわけで本題です。
映画「ヘルタースケルター」を観ました。沢尻エリカ超キレイ、蜷川色、あざやか、東京はヘヴィだな、で、ひさしぶりに映画をエンドロールの最後まで見ました。腰がずっしりと重くなっていました。
十年以上前に原作を読んでから、読み返していなかったような気がしました。そうそう、こんな場面あった、と思い出しながらの鑑賞でした。
そのあと、なんとなくずっとその世界について考えていました。
全身整形、芸能界、消費するものは消費される・・、そして記憶に染み付いている、原作者、岡崎京子さんの、「いつも一人の女の子のことを書こうと思っている。いつも。たった一人の。ひとりぼっちの。一人の女の子の落ち方というものを」というフレーズを思い出していました。そしてあのラストシーンが蘇ります。
落ちていった先を描いた作品でした。復活? 異形のまま、フリークスとして生き残る・・などと、どこかで読んだような言葉が出てきて、うるさいな、と思いながら、全身整形を使って何を描こうとしたのか、なのよ、と肝心の言葉が出てこないので、原作読むか、と本屋に向かいました。
物語の途中で、主人公りりこが回想するモノグラムがあります。
「そうだ あたしは家出して東京に出てきて でも何がなんだかわかんなくて 親切そうに声かけられて ホイホイついてっちゃったんだよねえ そいつが超悪い男でさあ すーぐあたしを売り飛ばしたんだよねえ へんな店 デブ女ばっかでさあ またデブ好きのオヤジっているんだよねえ まあ 生まれて初めてちやほやされてうれしかったけどさあ あたし実はそんなにセックスって好きじゃないんだよなあ・・だから別に逆に「おシゴト」もつらくなかったのかなあ・・」(『ヘルタースケルター』岡崎京子 祥伝社 2003)
そのあとりりこは「ママ」(芸能プロダクションの社長)と出会って、全身整形してモデルになるのですが、この箇所を読んだ時、私は木嶋佳苗を思い出しました。そういえば、佳苗が上京して「デートクラブ」で働いていた頃とこの漫画が連載されていた時期(90年代前半)はかさなっています(木嶋佳苗に関しては北原さんの著書『毒婦。』(朝日新聞出版 2012)を参考にしています)。
物語の「りりこ」は整形を選んで、現実の佳苗は選ばなかった、と比べてしまいました。
監督の蜷川実花さんのインタヴューをいろんな雑誌で読んでいると、実際に劇中でも台詞として引用された、「強いから綺麗になれるわけではなくて、綺麗になると強くなれる」というフレーズ(原作にはない)を押していて、うんうん、とうなずきつつも、物語はそこで終わらないのよね・・、と何かがひっかかっていました。
木嶋佳苗を思い出したとき、佳苗の「強さ」というものがあるとしたら、それは整形だけではつくれない「強さ」で、物語の世界で言えば、ラストでりりこが辿り着いた「強さ」につながるものだと思いました。
『ヘルタースケルター』原作より
「そうよ あたしはあたしがつくったのよ あたしが選んであたしになったのよ ママの力じゃない あたしはママのものじゃない あたしはあたしのものなのよ」
りりこと木嶋佳苗に共通する「強さ」は、この強烈な自意識と、徹底して他人に依存しない姿勢にあるように思いました。
『毒婦。』を読み終えたあと、なんで佳苗は殺しちゃったんだろう(殺したかどうかはまだわかりませんが・・)とそれが大きな疑問でした。それまでの詐欺では死者はいません。
北原さんの取材は佳苗の過去に向かい、「朝日新聞」な、「リベラル」な佳苗の父親が登場します。「あいつは一人でも生きていけるだろう」と「長男にするように」佳苗を突き放したエピソードが印象的です。一方で父親の自慢をしていた佳苗。父親が死んだ後、佳苗の周りにいた男性が死に始めた、という時系列が提示されます。佳苗は獄中の今もなお、「父親に認められたかった娘」なのではないか、とふと思いました。
「なんでも一人でやれる」「自分のことは自分で決めて責任を持って行動する」
もうとっくに私の妄想の域に入っていますが、そんなリベラルな父親の教えを忠実に守ってきた、そうすれば父の娘でいられる、それがあってこその自信。
ところが、徹底して他人に依存しない生き方、って、突き詰めてしまうと、孤独になります。それが佳苗の「強さ」になってしまったような気がしたのです。
「だからなおさら ままごと遊び 男ならやめなさい そんな感じね Lets play in solitude」
たしかに明菜は「孤独」を歌っていました。「彼女」は男とそれを戯れたい様子です。
亡くなられた三人の男性は、佳苗が手に入れた自信、強さ、その孤独を乱したのかもしれない、ひらたく言えば、佳苗はそれらと引き換えに彼らと関係をつくってしまいそうになったのかもしれない、と想像してみました。
だからといって人を殺していいわけじゃありませんが(殺したかどうかはまだわかりませんが・・)、さらに父親の死を佳苗がどう受け止めたのかもわかりませんが、佳苗が手に入れた「強さ」は、父親の存在がきっかけで生まれ、それを「たった一人で」極めてきた結果だとして、出会った「男」たちがその「強さ」を佳苗に求めなかったら・・? ましてや目の前の「男」は父親ではないし、現に父親はいなくなってしまった。身に着けてきたものを脱ぐ意味がわからない。それなのに「俺のために脱いでくれ」と頼まれてしまう・・。ままごと遊びまでしか要らないし、知らない。それにはとても長けている佳苗。そのあとも関係を続けるってどういうこと? それは「孤独」に戻ること。
だとしたら・・、父親に代わって善意でそのことを「教えてあげた」のかもしれない。
どうしても最後にりりこの不敵な笑みを入れたかった、と蜷川監督は言っていました。一方で、裁判後に書かれた佳苗の手記には奇妙な余裕が漂っているように思いました。男社会の歪みを丸ごと身体に取り入れたりりこと、それを調理して食べてきた佳苗。辿り着いた場所は徹底して社会から離れてしまいましたが、この先も二人がその「強さ」を手放すことはないんだろうな、と思います。
私は「ゲイ」であることもあって、この社会で「むちゃくちゃ、男」にならずに済んでいますが、「りりことかなえ」は、「むちゃくちゃ、女」だったような気もしました。
オリンピック。レスリングの吉田沙保里選手が父親を肩車した映像に笑いました。