木嶋佳苗の裁判を100日間通して傍聴しました。公判は全て36回。そのうちの33回を傍聴しました。
もともと傍聴記を書く予定はなく、ただ木嶋佳苗を知りたく初日の公判に行きました。600人を超える傍聴希望者の列で、当然傍聴券はあたらずすごすご帰宅したところ、週刊朝日の編集長が私が木嶋佳苗に興味を持っていると知り、「傍聴記を書かない?」と電話を下さりました。
そこから・・・人生が狂いました(笑)。2012年の1月10日から4月13日の判決の日まで、木嶋佳苗のことしか考えられない日々が続きました。毎日毎日毎日、夢の中でも木嶋佳苗のことを考えました。
そもそも私がこの人に興味を持ったのは、「今までみたことがないほど、まるで共感も同情も持てない女性犯罪者(本人は殺人は否定していますが詐欺は一部認めているのでこう記します)」だったからです。
罪を犯してしまった女性に対して、例えそれが我が子を殺す母であっても、夫を殺す妻であっても、「もし私がその立場だったら・・・」と共感を寄せられる部分は必ずある。でも、木嶋佳苗にはそれが、まるでなかったのです。彼女が男性に”援助してください””支援してください”と、”学生のふり”をして”お金を求めた”ことなどを知っていくにつれ、彼女の生い立ちや、彼女のセックスについて気になりました。どんな男性観をもち、それはどんな時代背景があったのだろうか。
木嶋佳苗は1974年生まれで、1993年に上京しました。その彼女が見た「東京」はどういうものだったのか。なぜ彼女は、短期間で一億円以上ものお金を複数の男性たちから貢がせることができたのだろうか。男性は彼女に何を求めたのだろうか。彼女は男性にどんな感情を持っていたのだろうか。
知りたくて知りたくて、たまりまりませんでした。
そういう思いで傍聴を始めました。
私はこれまでセクシュアリティについて書くことが多かったのですが、時々朝日新聞出版「アエラ」の現代の肖像という人物ルポを手がけてきました。三ヶ月間、みっちりと対象にはりついて取材していくルポです。今回木嶋佳苗を書けたのは、アエラで人物ルポを手がけさせていただいたことが大きかったと思います。本人と話せることは一度もなかったけど、とにかくしつこくしつこくしつこく取材をしようと思いました。彼女が会った人、彼女が関わった人にできるだけ会っていこうと動きました。生まれ育った別海にも行き、誰も話を聞けなかった方たちに話を聞くことができました。傍聴記に加え、人物ルポとしても読めるものを書きたいと思いました。とにかく、木嶋佳苗に近づきたい、理解したいという思いでした。
さいたま拘置所には2回通いました。木嶋佳苗には手紙も一度出しました。
木嶋佳苗が週刊朝日の私の傍聴記を読んでいたことを知ったのは、木嶋佳苗自身が手記を出した時でした。その手記には、恐らく私にしかわからない”木嶋佳苗からのアンサーソング”がありました。朝日新聞社の方から木嶋佳苗が私のことをあまりよく思っていないことを聞きました。どういう理由で、どういう言葉で「北原が嫌い」といったのかは分かりません。でも、木嶋佳苗の手記から、なんとなく分かるような気がしました。手記から私は、「私のことは私自身で分析し、私自身で書きますから」という決意を感じました。
手記を読んだ後、複雑な感情にしばらく苦しみました。
三ヶ月間のめりこんで考えてきた木嶋佳苗の「中身のない手記」に落胆しているのか、それとも「嫌われた」ことにショックを受けているのか、色々と考えましたが、一番適確な表現としては、一方的に観察し、考えてきた”取材対象者”としての木嶋佳苗といつのまにか「関係を結んでいた」状況に、気持ちの整理ができない思いというか。これから始まる関係なのかどうかも分からないまま、私はこの裁判を通して、木嶋佳苗という人に、関わったんだ、ということを自覚したのです。
これから少しずつ、本について、木嶋佳苗について、今どう思っているかなど、自分のブログで書いていきたいと思います。
よかったたら、「毒婦。」、手にして下さい。
色んな風に、色んな方に読んでいただけたら嬉しいです。
どうぞよろしくお願いします。
北原みのり