男性二人との飲み会で、私は市橋達也の話をした。1月末に発売された市橋の逃亡手記本「逮捕されるまで」に、沖縄の離島で毒蛇をさばいて食べたりなどの自給自足生活をしたり、自分で顔を縫って整形したりしたっていう逃亡中のことが書いてあるらしいっていう話を、夫から聞いたばかりだった。
飲み会の男性二人は最近モンスターハンターにハマっていてテレビもネットのニュースも観てないと言っていて、市橋の本が出版されたことを知らなかった。私は得意げに「市橋は自分で整形したらしい」とか話した。二人はサバイバルな市橋の話に驚いていたので、私は更に得意げに話した。
ひととおり話したあと、男性の一人が「市橋はリンゼイさんのことを本当に好きだったんだと思う」とつぶやくように言った。私はその意味が分からなくて、「?」となった。もう一人も、「そうですよね」と「市橋はリンゼイさんを本当に好きだった」ということに完全同意を示した。
私はこの事件を見ていて、「市橋はリンゼイさんを本当に好きだった」と思ったことは一度もなかった。「好きだったのだろうか?」と考えたことすらなかった。市橋は稀代のナルシストだという印象は逮捕されても変わらなかったし、サバイバル市橋の話を聞いても、やはりナルシストじゃないとそんなことはできないと思ったし、ナルシスト市橋があってこそのサバイバル市橋である、と思った。
ナルシストだから人を好きになるはずがないとか、好きなら殺すはずがないとか、そもそも市橋がナルシストであるかどうかとか、はっきりした理由はないけれども、この事件で、歪んだ類のものも含めて「好き」とか「愛情」とかの存在を全く感じなかった。
だから、その3人しかいない飲み会で、自分以外の2人が、ある程度の確信を持った面持ちでそういうふうに言ったことがとても衝撃だった。女にはわからない、男同士だけが共有している感覚なのかな、と思ったら不安になった。家に帰って夫に尋ねてみようとしたが、躊躇なく同意されたら、と思うとなんとなく聞けなかった。私は「男の人はあの事件をそう見るんだ」と軽く流してこの件を片付けることにした。
市橋の本は買うつもりなかったけど、大型書店で見つけて中身を見てみたらすごく面白そうだし、これを読んだら「市橋はリンゼイさんを本当に好きだった」の意味が分かるかもしれない、と思ったらどうしても読みたくなった。だけど1300円を出して印税が市橋に行くかと思うと腹立たしく、リンゼイさんの家族が頭に浮かんで、買っちゃいけないもののような気がした。かなり迷って、一旦置いておいて(その時もう既に買うつもりではいるのだが)、他の階に行って健康本コーナーなど回って結局、市橋の本を買った。せめてもの、何がせめてもの、なのかよく分からないが、現金ではなく商品券で買った。
本はかなりドラマチックだった。そのまま脚本になるシーンの連続で、噂どおり主演は水嶋ヒロが一番いいと思うけど、現実的に考えて山田孝之あたりが演るんじゃないか? と思った。とにかく誰が演じても面白い映画になるなー(でも被害者のことを考えたら絶対映画になるのは許せないなー)という感想しかない本だった。逃亡犯はこうであってほしい、という人間の良心からくる願いのようなものを、一ミリも裏切らない内容であり、著者がそれをとても意識して書いてる感じが強かった。懺悔が大袈裟でなく、程よいインテリジェンスがあって、長期逃亡犯に絶対に必要な幸運とエンターテイメントすぎる偶然の散りばめられ方も自然で、逃亡手記本として良質、としか言いようが無い。
でも本当にそれだけ、で、「市橋はリンゼイさんを本当に好きだった」に関してはやっぱり何も動くものはなかった。事件直後に警察を振り払って逃げるとき、本命の彼女へ「一緒に逃げてくれ」と電話をかけた、というのを読んでも、「やっぱり市橋はリンゼイさんを好きだったわけじゃないじゃん」と思わなかった。本の中で語られる市橋とリンゼイさんは、まるで交通事故の加害者と被害者のように思えた。
それより気になったのは、読んでいる間、自分が市橋に対して怒りが沸かなかったことだ。こういう本をワクワクしながら読み進めている自分の顔を、誰かに見られていたらどうしよう、という気持ちでずっと読んでいた。被害者が男だったら、もっと軽い気持ちで読めるのに、と思ったし、被害者が日本人の女だったら、この本と市橋へ、もっとはっきりとした怒りを持てる、とも思った。そういう自分の中にある男女差別、人種差別が浮き彫りになってしまって、男共有の感覚について夫に尋ねることがまだできない。
「市橋の逃亡手記本」
女向け商品度☆☆☆☆☆(判定不可)
ホモじゃないことだけは分かった度★★★★★
そりゃ逮捕時イケメンに見えるはずだわ度★★★★★