会社に入社した頃からこれまで以上に燃えたこと。それは筋トレだった。Tが一番私をオンナだと実感する時、それは私の背中に手を回した時だった。オトコと比べて狭い背中、細い二の腕、貧弱な肩。もともと168センチで48キロだった私は、必死のトレーニングし、Tと別れる頃には55キロまで筋肉を増やしていた。+8キロはすべて筋肉だ。仕事がない時は、とにかく筋トレ。会社に行き始め、スポーツジムに行く時間がなくなった私は、雑誌の最後のページにあるような、“これであなたもマッチョ!自宅でできるトレーニングキッド”を買い、プロテインを飲み鍛えていた。トレーニングは最低2日に1回。それは10年ほど続いた。
1988年。私はニューヨークにいた。夜に一人で街を歩けば殺されてもしょうがないとガイドブックに書いてあった時代だ。安いツアーで行く初ニューヨーク。「ここが殺人現場だった所です」と言われても頷くほど、暗く、黒いシミだらけの部屋が宿泊先だった。それもガイドブックに“一人で歩いては行けないエリア”とされていた場所にあるホテルだった。英語ができない私は、ありえない部屋だ! と怒り、ましな部屋にしてくれと、辞書片手に抗議した。
根負けしたフロント係は、“イエローモンキーめ!”と文句を言いつつ新しい鍵をくれた。殺人現場から強盗現場へ。ほんの少しのグレードアップだ。
しかし、そのホテルには必ずなくてはならないものがなかった。あんなに旅行会社に確認したのに、それはなかった。スポーツジム・・・。
『飛行機に乗ってたから筋トレ2日もやってない!どうしよう。』
鏡を見て、上腕三頭筋をチェックする。
『あっ!少し減ってる!!私のこれまでの苦労が!!』
焦った私はフロントに向かった。
「Where is ジム?」
「ジム君はどこ?」
そう聞いていることは薄々わかっているがそれどころじゃない。私は必死で質問した。
「Where is ジム?!!」
「ジム is マッスル」
ラチがあかない私は、必死でバーベルを上げる真似をする。ウィークデーのホテルのロビー。こんなホテルでもおめかしをしたカップルがバーを目指すホテルのロビー。ジャージ姿の私は、ついにエアロビを踊り出した。
「THIS!」
ようやく理解したフロントマンが私にジムの地図を書いてよこした。時間は深夜12時。それはホテルの横の道を500メートルほど入ったビルの5階にあるという。
『あ~よかった。これで上腕三頭筋も僧帽筋も保てるぞ!』
喜びも束の間、その1分後、私はニューヨークの現実の恐ろしさを知る。
深夜のニューヨーク、危険エリア。そしてそのさらに奥地。人通りはなく、薄暗い路地。ビルの前で数人のグループがたむろしている。
『持っているのはナイフ?この叫んでいる人はドラッグ中毒者?』
私は自分の無謀さに恐怖した。『でも、行かなきゃ!』
どうみても14、5にしか見えない見知らぬ日本人に、路地裏の住人は注目した。『いかん!このままではジムに行く前にやられてしまう!』
そう思った私は、この街に埋もれられるように、ジャンキーなニューヨーカーになりきることで、危険を回避しようとした。ジムまで400メートル。左腕に大きなラジカセを抱え、ラップを刻む黒人のようなイメージで、私は楽しげにがに股で歩き始めた。チューインガムを噛んでいるふりもした。しかし、残り200メートル位のところであることに気がついた。
『ここはニューヨークだ。私のイメージは西海岸のヤンキーではないか?』
私は必死にニューヨークを舞台にしたミュージックビデオを思い出した。
マイケルのスリラーか!私の足取りは、わけのわからないステップを刻む。
『いや違う!そうだ!ニューヨークと言えば、シャーク団!ウェストサイドストーリーだ!』私は右手を鳴らしながら恐怖など微塵もない地元のアジア人として歩いた。長い500メートルの旅。
ようやくジムがあるという場所に着いた。『やった!』
エレベーターを登り、5階を目指す。もう危険なことはない。『さぁ!やるぞ!!』エレベーターの前にはCLOSEDと書かれた看板がぶら下がっていた。
続く