アタシはね“ザマアミロ”って思った
そのとおりよ “ザマアミロ”って
世の中みんな キレイぶって ステキぶって 楽しぶってるけど ざけんじゃねえよって
ざけんじゃねえよ いいかげんにしろ
あたしにも無いけど あんたらにも逃げ道ないぞ ザマアミロって
なーんてね
アタシがいまでも時々本棚から取り出して読むマンガのひとつに、岡崎京子の『リバーズ・エッジ』があります。冒頭に挙げたセリフは、登場人物の人気モデル・こずえが、河川敷に打ち捨てられた死体を見たときの感想を、主役のハルナに伝えた言葉なの。
主人公のハルナは「現実・現在」を把握しきれず(あるいは、把握することを最初からあきらめて)、どこにも動けずにたたずんでいるキャラクター。対してこずえは、「現実・現在」というものを、少なくとも見通してはいるキャラクターなの。読むたび、こずえのこのセリフは、鉛を飲むように胸に落ちてくるわ。
さて、今日のネットニュースにこんなものがありました。
http://sankei.jp.msn.com/west/west_life/news/140505/wlf14050507000003-n3.htm
関東のテレビ界が「マツコ・有吉弘行」だけに仕事が集中している、とのこと。偶然というかなんというか、先日、ある雑誌の編集長からも「あのふたりの人気が突出しているのは、なんでなんでしょうね」と訊かれたのよ。
アタシは、その編集長にこう答えたわ。
テレビの世界で売れている人の中で、「基本、人生はクソのようなものだ」というベースから動こうとしない人は、あのふたりだけ。クソのようなどん底から這い上がったとしても、ほとんどすべてのタレントは、這い上がれた瞬間に「俺は人生に勝った」「夢は絶対にかなう。私だってできたんだもん、みんなにもできるよ」というステージにやすやすと移行してしまうけれど、あのふたりは、頑ななまでにそれをしないでしょ。ネガティブとも少し違う、諦念というものが、あの年齢にして、すでにある。でも、それこそが今の日本の「リアル」なのかもね。
昨日、再読した『リバーズ・エッジ』の、こずえのセリフのページで、頭に浮かんだのが、マツコと有吉弘行のことだったの。力のある芸能人や、クオリティの高い番組が、いつでも必ず「数字」として評価されるとは限らない。あの名ドラマ『すいか』も、視聴率はまったくふるわなかったし、松任谷由実が2004年に出した『VIVA!6×7』というアルバムは、いちばん売れていた80年代後半から90年代前半の彼女のアルバムと比べても、なんら遜色がない(もしかしたら上回る)出来だったのに、セールスは1/10になっていた。大きな数字が生まれるためには「今」とのシンクロが必要である……とするならば、あのふたりが「数字」を生むための「今」とは、そういった空気感ではないのかな、と。閉塞感、いまだにクリアにならないものね。
マツコは、4月21日の『月曜から夜ふかし』(日本テレビ系)で、こんなことを言っていたわ。
「池袋の東武デパートが大好き。地下の食品売り場がいちばん好きなの。理想は東武の横に住みたい、いや、あそこの12階くらいに住みたいの。レストランのテナントにひとつどいてもらいたいのよね」
「(デパートの客に)いじられるでえ」と返す関ジャニ∞の村上信五に、「大丈夫。この仕事がダメになってきたら、そこで店開くから。真剣に考えようかな……」
実はマツコは、けっこうな頻度で「この仕事(つまりは自分の人気)なんて早晩しぼむ」ということを言っている。有吉も、一発屋扱いされて何年も仕事がゼロに近かった状態から返り咲いているせいか、「人気」というもの自体にはすごく醒めている。そんな「他者や世界に対する以上に、自分自身に対して醒めている」というモードが「批評性」の根幹にあるのかしら、と思うのよね。
あ、それから有吉弘行に関しては、ゲイとしてもひとつ言わなきゃいけないことがあるわ。『有吉反省会』(日本テレビ系)という番組で、パリコレモデルのアイヴァンがカミングアウトをしたときに「今までつらかったねえ」と自然に言いつつ、番組全体を笑いの方向に持っていくために、シモの話を繰り広げるアイヴァンを、アレクサンダーやJOYといったノンケモデルとひとまとめにして、「モデルってのは下品なのしかいないのか」と突っ込んでいたの。これ、いままでのどんなお笑いタレントもやってこなかった舵取りよ。「オカマ=下品」というお約束に乗らず、チャラいノンケモデルとひとからげにしてから「下品」と斬る。こういうところで、人としての品のよさが表れるんだと思うわ。