Loading...
『L word』、日本語タイトル『Lの世界』。見事に、はまれない。
何年も前に友だちが「すっごい面白いドラマ、アメリカでやっているよ!」とビデオを貸してくれたことがある。アメリカに住む知人がダビングして送ってきてくれたのだそうだ。
確かにそれは面白かった。というより、第一話だけしか入っていなく、これからうんと面白くなるだろうよっ、なるに違いないだろうよっ、というたくさんのエピソードをドラマチックに散らしたような第一話だった。「結婚」を考えるレズビアンカップルの隣に引っ越してきた小説家志望の女性。男との結婚を考えているが、女性の存在が気になり始める・・・。子どもをつくるために、精子提供者を求めるレズビアンカップル。適任者はなかなか見付からず、男とのセックスをついに試みるが・・・。
レズビアンによるレズビアンの物語り。制作者にも女優にもオープンなレズビアンがいる。第三者的にレズビアンワールドを面白がるのではなく、レズビアン自身がレズビアンの生きている「今」というものを切り取ってゆくのである。・・・面白くないはずがないではないか。DVDリリースがされてすぐ、第二話以降をワクワクする思いで借りた。
そして・・・見事に、はまれない自分がいた。あれ? おかしいな? 体調が悪いのかしら? と首をかしげながらもリリースされているDVDを借りては次々観てみたが、回を重ねるとごに苦痛さえ感じるのだ。もしかしたら、ちょうど『セックス・アンド・ザ・シティ』と一緒に借りていたことも作用しているかもしれない。『セックス・アンド・ザ・シティ』には全く感じられない「重さ」が、『Lの世界』から漂ってくる。その重さに陰鬱な気分を深めている自分がいる。
たぶん、その重さとは、「自分が自分である」という種類の重さなんじゃないかと思う。私が私であること。私という私を引き受ける私であるということ。
おお。何て重い。ああ。何てやっかいなテーマ。
『Lの世界』の舞台はロスアンジェルス。アメリカでも最もセクシュアルマイノリティに寛容な地域であっても、そこには「私が私である」ために受ける差別が歴然とある。レズビアンの物語りはどうしたって、自我という重さを引き受けるドラマにならざるを得ないのだと、『Lの世界』を見て思う。少なくとも「この世界」では。
それに比べて『セックス・アンド・ザ・シティ』の女たちは、「自我」というものの葛藤には立ち止まらない。ニューヨークの四人の女たちは、欲望を主体に考え、自分がほしいものと自分が守りたいものを選択し、あるいは選択できなかったりするままならさを、恋愛とセックスと友情を通じて知っていく。それは「我」の葛藤ではなく、「欲望」の自由と葛藤である。それは彼女たちがストレートだからなのか、セレブだからか、ニューヨークだからか。『Lの世界』の葛藤とまるで違う。
『Lの世界』にはまったという知人がいる。レズ友と、登場人物の誰に最も共感するか、魅力を感じるか、というようなことで盛り上がったそうだ。彼女に聞いた。
「『Lの世界』はあんなにテーマが”重い”のに、なぜ、受けたんでしょう。私、わからないんですよ」
その人はキッパリとこう答えてくれた。
「”重い”から、受けたんでしょ」
「我」に苦しむ主人公たちに私は閉塞感と重量を感じたが、その閉塞感と重量こそが、レズビアンに限らず、女たちが共有する物語りなのだ、と、彼女は答えてくれたのだと思う。
・・・と、ここまで書きながら、それでもどこか釈然としない自分がいるのだ。それはもしかしたら「我」というものの捉え方の違いなのかな、とかなんとか。もしかしたら「エンターテインメント」に期待するものが、私はずれているのかな、とか。
例えば、『セックス・アンド・ザ・シティ』で失恋によって「我」なんてものが木っ端微塵に壊れてしまうような絶望感の方が、それなのに、例えば友だちが「ウンコをもらした」というようなエピソードで大笑いし「我」を取り戻すような主人公に、私は共感する。壊れたのに、壊れてないじゃん。自分って存在は、呆れるほど固定的じゃなく、自分で考えているよりずっと野太く、笑っちゃうほど流れる水のように変化し続けていく。
『Lの世界』の主人公たちは、きまじめなほど、自分を引き受けようとする。が、うまくいかない。我に苦しみ、我であることに傷付き、互いに傷つけているようにみえる。その物語りをみていると、「自我」という「芯」が人間の真ん中に存在し、絶対的な「私」というような約束があるような気分にさせられる。それはレズビアンの物語りであることと、やはり関係があることなのだろうか。
「私」という「女」をどう捉えるのか、あまりにも対照的なドラマだと思う。『セックス・アンド・ザ・シティ』と『Lの世界』。
『Lの世界』シーズン5、まだ観てないないが、観ようか無視か、迷うところです。