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ドラマ「斉藤さん」。久しぶりに水曜日が待ち遠しいっ、と思えるドラマだった。
幼稚園を舞台に、ママたちの交流を描く「斉藤さん」。斉藤さんは、ママ友と群れず、うわさ話をせず、空気を読まず、思ったことをズバリと言う孤高の女。観月ありささんが好演していた。
ドラマでは、子供の受験や小学校統廃合問題や地域の権力者との関わり・・・など、地域に根付いた問題が次々におこる。そこで「自分なりの正義を堂々と振りかざす正義の味方、斉藤さん」登場する・・・という「説教&応援歌風ドラマ」かと思いきや(原作のマンガはどっちかと言うと、そういう雰囲気が強い)、これが思いもかけない、女の友情物語だった。
私はこのドラマで、初めて観たものが一つある。
女友だちを追いかけて成田空港まで行く女、である。
空港、という舞台は、女と男のためのものだと思っていた。どちらかが海外に行く恋人たちは必ず出発直前にケンカする。そして出発当日、何かの調子で誤解がとける。残される者は慌てて車か電車に飛び乗って成田に向かう。そして成田空港では人を蹴散らすように走り出し、広大な空港で運良く出国口に入ろうとしている彼女(彼)を見つけ、その背中に○○!!! と呼びかけるのだ。その瞬間、空港には沈黙が流れスローモーションで○○が振り返り・・・サヨウナラを劇的に行うための場所、空港。
その空港が、女どうしのために用意されているドラマなんて、今まであっただろうか。
海外に旅立つことになる斉藤さん。その斉藤さんを親友が追いかける。ケンカをしていたわけでも、ギクシャクしていたわけでもない。ただ、何か言い残したことがあるような気がして、親友は夢中で追いかける。息子の卒園式なのに。大切な謝恩会があるのに。電車に飛び乗り、成田空港に向かう。斉藤さんも、「彼女が来るかも」という予感を抱えて空港にいる。夫と息子に先に出国してて・・・と言い残し、トイレに行く。空港を見渡し、何かの気配を感じている。そして・・・二人は出会う。トイレに向かう斉藤さんの背中をみつけ、親友は叫ぶのだ。
「斉藤さん!」
行かないで、なんて言う権利は女友だちにはない。恋人じゃないから、抱擁もしない。二人には子供がいて、夫がいる。子供の幼稚園がたまたま一緒というだけのママ友だ。こういう二人が、「サヨナラ」をするためには、いったい何が必要なのだろう。
女二人は何かを確かめ合うように、この物足りなさをはかるかのように、ベンチに座っている。大切な話をするわけではない。ただ時間が過ぎる。いよいよ飛行機の時間が近づいてきた斉藤さんが空気を断ち切るように、じゃぁ行くね、と立ち上がった。
「時々帰ってくるからさ。じゃぁね」
その瞬間、女友だちは、あっ、と気が付いたように語り出す。
「時々、じゃない。私は・・・」
彼女はゆっくりと語り出す。私は斉藤さんとずっと一緒に息子たちの成長を見守っていけると思っていた。息子たちが自分たちの手を離れたら、斉藤さんと一緒に年を取っていけると思っていた。その時間の楽しさを心にいつも描いていた。私は一人では何もできないかもしれない。でも、斉藤さんと一緒にいたから、成長できた。斉藤さんがいなくなるのは、とても寂しい。寂しい、寂しいよ、斉藤さん! それが言いたかったのよ、って。
斉藤さんは、そこで初めて涙を流す。今まで女友だちに見せたことのない涙。
斉藤さんは、そこで初めて涙を流す。今まで女友だちに見せたことのない涙。
「マノ(彼女の名前)は、ずっと私の友だちだよ。離れていたって友だちだよ。信用しなよ!」
たまたま子供の幼稚園が一緒で、たまたま子供の小学校が一緒である、という「ママ友」。そのママ友の世界が、子供や夫との関係ではなく、「女の友情」という軸で語られることの新鮮さに、毎回釘付けだった。女たちが、夫や息子との関係以上に、女どうしの関係に一喜一憂する姿も、今までにみたことのない世界だった。
妻である、母である、というような役割ではなく、女友だちである、私はあなたを愛している女友だちである、そういう「役割」というのもあるのかもしれない、なんてことを思った。
妻である、とか、母である、というのが「状態」ではなく、「役割」や「立場」というものであるとしたら、「女友だち」というのは、ただの状態などではなく、やはり役割で、やはり立場であり、それは、心の底から「あなたがいなくなるととても寂しい」と空港に追いかけてしまいたくなるような、そんな役割&立場なのだ、と。解放されたいのは、「役割」なんかじゃなくて、やりがいのある「役割」のあまりのない世界観からだったのではないかとすら思う。
女が女の成長を助け、女が女を刺激し、女が女を守る。
そういう役割を、女ならでは、やってみよう、やってみるのだ、と、なんだか拳をふりあげたくなる。斉藤さんは、すごい。