最近、LGBTという言葉にすっかりメジャー感が漂っているように思える。
LGBTの人権、教育、支援の広がり、結婚、出産、仕事、・・・そんな話をしていると、LGBTの活動戦士のような人が、「ようやくLGBTの時代が来た。いよいよ私たちの時代よ。もっと時代を変えなければ。」と、明るい未来の幕開けとそして時代の空気を自分達の手で変えたという自信に満ちあふれた表情で拳を上げていた。その人は、とても眩しかった。この眩しさを見ながら私は10年ほど前の出来事を思い出した。
「おまんこと言えなきゃだめよ。言えないってことは自分の性器の存在を否定することよ。」私がフェミニズム=女に優しい男だと思っていたことが間違っていると知った頃、フェミの人達はとりつかれたようにその4文字を連呼していた。まるで呪文のように、その言葉を発する度に世界が魔法にかけられると信じているように、その場にいた5人のフェミニストがただその4文字を叫ぶだけのための会話をしていた。私は、なるほど。自分の体の一部を言葉にできないのは確かにおかしい、男性は平気で言ってるのにと、新たな視線に頷きもしたが、でもその目の前の雰囲気に違和感も感じていた。
その4文字を口にしているからではない、その人達が自分の起こした革命に酔い痴れ、銃を空に撃ち込むように、声を張り上げ、そしてそれに同調しない人をバカにしたような視線を向けていたからだ。
「でも私はやはり言いたくないなぁ。私の問題だね。」
そう言ってその場からいなくなった人を、その5人がバカにし始めた。
「ああいう人が家父長制の・・・フェミニズムとは・・・ああいう人、アイダミツオとか好きなんだよね。わはははは」
たった数分前に女の問題を語る仲間としてそこにいた人間を、ポンと外に追いやれる5人を私は、心から醜いと思った。そして正しさとは怖く冷たいものだと思った。正しさって眩しいけどちょっと怖い。
私たちは声を上げることは、何かを変えられる力になることを知っている。そしてセクシャルマイノリティは、少しずつだけれどその存在をないものにされない社会に向かって歩き出している。声を上げた人達のお陰で私もこの世界で空気を吸ってられる。それは真実。
前出のLGBTの活動戦士のような人が話していた。「これからはLGBTの時代よ。あなたももっと声をあげなきゃ。私たちは何のために生まれてきたの?きっとLGBTの人権を勝ち取るために今のこの時代にいるのよ!だから声をあげることがあなたの使命なのよ。」
目の前に眩しさにクラクラしながら私はこれまでの自分を反省してみることにした。
『自分のことだけ考えて生きてきた私は、闘い続け今を勝ち取った人達のお陰でここにいるのではないか。だとしたら、私は貢献度0の傍観者ではないか、闘えアンティルよ!仲間と手を携え、拳を上げろ!時代は私を求めている!・・・・』
しかしその反省の声よりも大きく、私には私の声が聞こえた。私は私の人生を歩むためだけにここにいるのよ。と。