先日、北原さんお薦めのテレビ番組を観た。アメリカのドキュメンタリー番組を紹介する東京ローカルの番組だ。前回の番組はテキサス州で学生に性教育の必要性を訴える高校生の物語。キリスト教原理主義が根づくこの街で、牧師は学校で、“一番の性教育はセックスをしないことだ!”と声を上げていた。市民の多くがこの意見に賛成していた。コンドームの使い方を知らない子供達。この街では避妊は悪なのだ。そしてその結果、この地域はアメリカで一番、10代の妊娠が多い地域になった。
「性教育をするべきだ!」
地方自治体に10代の代表として意見を提言するために組織化された青年会に入り運動を続ける女子、それがこの物語の主人公シェルビー・ノックスだ。青年会の仲間と共におこなった運動もむなしく、シェルビーの性教育改革が停滞したころ、シェルビーは学校で不当な差別を受けるセクシャルマイノリティーの運動に加わる。
何年前の話しなのか目を疑いたくなるような事実がそこにはあった。
テキサスでは避妊同様、“同性愛”は神に背く許されない行為。敬謙なクリスチャンであったシェルビーは差別に苦しむ人々の姿と神の教えを照らし合わせる。
これが神が求める世界なのか・・・・・・・・
シェルビーはキリスト教に疑問を感じ始める。
シェルビーの運動に嫌悪を示す青年会の仲間。そしてテキサスの人々。
“自然の摂理を壊す存在”、“エイズをばらまく悪の存在”、“快楽主義の現代の膿”・・・
セクシャルマイノリティの存在に敵意と嫌悪をむき出しにする人達の顔をみながら私は私に向けられた視線を思い出していた。その視線の中にあるのは生理的な嫌悪。憎しみにも似た心の底からわきあがっているような批判の目。そうあの目だ。
なぜ“同性愛”は嫌悪されるのか。私にはどうしてもわからない。当事者だからなのか、もし私がストレートだとしたら少しで理解できることなのだろうか。私はいろんな想像をしてみた。もし誰もが嫌悪をしめすゴキブリが言葉を放ち、私に友好を求めてきたら。もしそれが気のいいゴキブリだったら・・・・ゴキブリと握手するそんな想像をして軽い吐き気をもよおしたところで私は首を横に振る。同じ人間に対し、生き方の選択だけを基準に嫌悪を抱くことはない。
なぜだろう。“自分達と違うセックス”に嫌悪を抱くものたちよ。セックスに必要以上に反応するものたちよ。私にはわからない。セックスを語ることは自分を語ること。どこかで見聞いた言葉が脳裏に浮かぶ。そしてその語りが街に響くことを危険だと思う人が私の街にもいる。何を恐れ、なぜ怒るのか。私のことを笑い さげずんでいた人達が、遠いい記憶の向こうで笑い声を上げ続ける。