『Tの自転車がない・・・』
会社へ向う人々の背広姿が駅の方向に連なる朝の中で、私は呆然とTの自宅の前で立ち尽くしていた。Tの青い自転車がないということは、Tが今日、自宅に帰らなかったことを示す。私との約束の夜、Tはどこかに泊まった。
時間は朝7時半。私はTの母親に見つからないように向かいのアパートの踊り場で座り込んでいた。Tの青い自転車が止まる場所が見えるコンクリートの上で冷え切ったカラダを抱えながら抑えきれなくなった涙をダラダラと流す。
『なぜ?!どこにいるの?!!』
頭の中でTとKが離れない。私の前に突き出されようとしている現実が、遠くの方からヒタヒタと歩く音が聞こえる。逃げることも倒すこともできない現実という真実。私には何もできない。
時間が経つにつれ、通行人が増えていった。黒いマントに大きなサングラスをした私へ好奇の視線が注がれる。私とKの違いを突きつけるようにその視線はいつもより鮮明に社会と私の前に太い線を引く。金物屋の自動ドアに映る私は大きな屋敷に一人で暮らす化け物のようだった。人前に現われることのない化け物。
『TとKが一緒にいることの方が普通なんだよ。そんな目に遭うのは自業自得。』
悲しみ、怒り、寂しさ、絶望。私の中から込み上げる感情は、この世界にとっては見世物にしかなりえないと感じた瞬間、私は初めて大きな恐れを心に宿した。燦燦と降り注ぐ太陽。動き始める時の始めの中で、私の朝はいつまでも明けないような気がした。
どのくらい待ったのだろう。春だというのに手足はかじかみ思うように動かない。ただただ同じ景色を眺め続けた私には、永遠にこの風景は変わらないようにさえ思う。それほど長い時間が流れていたらしい。
それでも私はどうしてもその場所から離れることができなかった。現実を見ずにはいられなかったのだ。私に待っているもの、それを直視せずにはいられなかった。
午前11時。幻のように青い自転車が私の方に向ってくる。
Tのお気に入りのブランドもののワンピースを着て化粧をしているオンナが一人、自転車をこいでいる。私はそれが現実なのか夢なのかわからないほど疲れていた。見慣れた自転車。見慣れたワンピース。そしてT。気がつくと自転車に向って走っていく自分がいた。