昨日届いた北原さんからのメ-ル。
「横道にそれないでイチゴ事件の続きを書くのだ。」
そう、イチゴ事件がなかなか終わらない。
北原さんのメ-ルに「すみません。」とだけ打ち込んで私はパソコンを閉じた。
この頃の思い出は深く斬りつけた切り傷のようだ。痛みも恐れも忘れ去ってしまった古傷のように事実の片鱗だけが残って後は何もない。
あの工場だけがぼんやり輪郭を表し、そこにTやらKやら私やらがエロビデオのパッケージをせっせと作っている。しかし、そこでどの時系列で何が起こったのか、Tとの関係がどう変わっていったのか、すぐに鮮明には浮かばない。20年前のひと春のバイトのことなど記憶が薄れて当然なのかもしれないが、私にとってあの春は「人生ももう終わりだ」くらいに苦しく忘れられない春だったはずだ。忘れられないはずの記憶。私の頭には深く分厚い霧がかかっている。
私は頭感覚がひどく敏感らしい。頭感覚とは私の造語だが、頭の中で起きている感覚に敏感だということだ。大学生の時、私は頭の中で起きている異変に気がついた。頭の奥底でカランコロンと音がするのだ。缶より共鳴しない筒の中に小さな石が入ったように、私の頭は激しく横に振るたびカランコロンと音を出す。はじめは耳の後ろの筋あたりがピキピキ言っているのかとも思ったが、明らかにその音は頭の奥で鳴っている。カランコロン。ちょうど鼻骨のあたり。
そのもっともっと深いところで不思議な音の主はいるらしい。誰も信じてくれないから、友達の耳元におもいっきり頭を近づけて振ってみるが、その音は友達の耳には届かないという。カランコロン。その音に気がついてから3年後、私はそれが私の勘違いでないことを確信した。
猛烈な頭の痛み。頭を抱えて眠れない日が2日続いた私は、病院に駆け込んだ。即MR。(CTだったか?)とにかく頭の中の写真を撮る検査をした。ドクターが私の写真をみて腕組みをしている。その顔はまったく真剣じゃない。しかしそのまなざしは熱い。
「何があったんですか?」と恐れる私にドクターは答えた。
「頭蓋骨の奥の奥。一番深い所の骨が陥没してますね。他は以上ありあません。」
あの音は幻聴なんかじゃなかった。この時私は痛む頭を抱えながら私を信じなかった友人につぶやいた。
「だから言ったでしょう。」
結局痛みの原因はわからないまま、私は生まれつき陥没している頭蓋骨の奥の奥を想像しながら家に帰った。私に聞こえているあの音は、最新の撮影技術でも見つからないほど小さな骨の欠片なのだということを、この時私は悟った。同じように私は頭に違和感を覚えることがある。それは強いショックや忘れたいと思うほど悲しかったことの記憶が私に与える違和感。
私はウサギの耳がある位置、てっぺんの右やや奥に、記憶の細胞があることを意識している。私の中のイメージではそれは穴のようにいくつも空いていて、そこにいろんな記憶情報が納められている。しかし、忘れたいほど辛いと思った記憶や悲しいことはその穴に栓がされているようになっている。
そしてその部分は他社からの攻撃により爆発的に苦しいことがあると、空爆のように記憶装置を破壊して通常生活の記憶も鈍くする。その違和感がはっきり私には伝わる。人間のからだはつくづく不思議だ。多少の副作用はあっても生きるために必要な変化を成し遂げるものなのか。
イチゴ事件を書く時、私はリハビリのように記憶の栓をまわしてみたりひねってみたりする。その行動は悲しい記憶を無理に呼び出す自虐行為ではなく、ただ開けにくい瓶の蓋をあけているような気楽な行為である。時には風景だけ思い出して、その中で交わされた会話がおもいだせなかったり、その時の感情だけ思い出してディテールを忘れていたりいろんなパターンがあるが、ポンと蓋が開くとちょっと気持ちいい。さてイチゴ事件にはなぜ栓がされたのか。
その話は必ずや今度。
あ~あ。イチゴ事件がまた書けなかった。