母はいつも私に情報をくれる。
“日本で初めての性同一性障害の治療が埼玉医大でスタート”
“性同一性障害で悩む人々への密着取材24”
“私って男? 女? それぞれの道”
新聞、雑誌。その情報は切り抜かれて私のもとへやってくる。関連した番組の放送予定もなぜか把握している母は、その日も私にメールを送った。
“今日の9時から性同一性障害をあつかったドラマが放送 母”
日本テレビで放送された2時間ドラマ、「私が私であるために」のことだった。
ひかるというMTFが主人公のこのドラマ。主人公を演じたのは、実際にMTFとして生活する俳優、相沢咲姫楽。オンナとして生きてゆきたいひかると、息子とキャッチボールをするという夢をかなえることが出来なかったことを今でも思い出す父親(橋爪功)との衝突を軸に、その家族と、ひかるの友人でMTFとしてプロデビューのステージに上がることを決意したシンガーとのふれ合いを描く物語。性同一性障害の古典の物語というか、代表的なエピソードを集めたような脚本だった。
観る前から展開が見えてしまうようなこの手のドラマを、私は普段あまり観ることがない。しかしこの日は、どうもドラマが気になってしょうがなかった。
原因は寒さで疼く手術の傷跡か、それとも、性同一性障害の治療の創始者、原科医師のこれまでを紹介した記事なのか。次々に思い出す苦い記憶が私をドラマへと向わせる。地下鉄の車内。大きな風が一吹きに風景を変えるみたいに、のんびりとした日常に遠い日の場面が映し出される。そしてそれは、生生しい感情となって私を揺さぶり始めた。
『観たい。』
私は家路を急いだ。
一緒にドラマを観ていたフェミの友人が怒っている。
「なんだよ。このドラマ。心はオンナ、カラダはオトコってなんだよ。」
「父親と主人公の関係の描き方に比べて、竹下景子(母親役)の取り上げられ方がおかしくない!」
「オトコかオンナしか存在しちゃいけないというメッセージになるじゃん。これって。」
いつもなら『そうだ!そうだ!』と話しに加わる私が、何も言わないことに友人は首を傾げる。
「どうしたの?」
チャンネルを変えようとする友人からリモコンを奪い、私はテレビにかじりついた。
痛い。痛い。痛い。
“このままで生きられないなら、それを世間が許さないというなら私を殺して。
なんで私のままで生きちゃいけないの!“
オンナのココロとオトコのカラダで悩む物語。ココロに性別? 主人公はオンナとして生活できればそれでいいかもしれないけど、ココロに性別をつけて解決する物語が増えることは、性別に縛られる社会を作ることじゃないの・・・。
頭でアラームがなっている。でもでも、私はこのドラマを否定できない。その理由は1点だけ。生きているだけで向けられる嫌悪。その痛みを体験した私は、ドラマといえどもそれを味わっている人の痛みを否定することができないということだ。自分の存在を気持ち悪い、恥、異常、と、見も知らない人から全否定される悔しさ。それをどうすることもできないという絶望する迷い。ひかるの姿は、そんな私の姿と重なるのだ。
主人公、そしてMTFの友人役の役者が当事者だったこともあるのだろうか、妙なリアリティーを発して私の昔を突きつけてくる。
今、私はココロに性別をつけるMTF、FTMと同じ目線でセクシャリティーを語ることが出来ない。そして自分がオトコである、オンナであると言い切れる潔さも持ち合わせていない。しかし私は思う。同じ痛みを経験した人を否定することはしたくないと。誤解を受ける言い方かもしれないが、私は社会がどうのこうのなんて、どうでもいい。ジェンダーの落とし穴を作る張本人は性別で翻弄される生きかたを強いられた者ではなく、それを傍観する者たちだ。
痛みを知らない者達が痛みを知らないものに語ることになんの意味があるのだろう。痛みを知ったものが、同じ痛みを持つものに痛みを与えることにホントの真実があるのだろうか。
もし私がこの人たちに、疑問をぶつける時、それってどうなの? と言いたくなった時、私はどう話せるのか、考えてたいと思っている。
「私が私であるために」。私はこのタイトルを笑い飛ばせない人生にいる。