先日、読者の方からメールを頂いた。
「あなたは男になりたかったのですか? それともオンナが好きなことを正当化するために男化したのですか?」
とそこには書いてあった。なんて答えていいやら、私は昔の自分を思い出しながら、頭を抱えていた。このコラムの場で答えを出そうと、パソコンに向かってはみたが、いっこうに筆は進まない。もう2日にもなる。締め切りもとうに過ぎている。どうしよう。書けない苛立ちを紛らわすために、私は前回の自分のコラムを読みかえしてみた。深夜0時。私は今、ようやく自分の答えを見つけることが出来た。
その答えは、温泉にあったのだ。
初めての男湯は、ちんことの出会いの場であった。子供の頃の記憶の中で朧気に残っている筒状のちんことも、痴漢が暗闇で出していた渦を巻いたちんことも違うちんこが、そこにはあった。私は、そんなちんこをまじまじ観ずにはいられなかった。風呂のへりにへばりつき、水面から目だけを出すようにお湯につかる私の目線は、自然にチンコに向かって注がれていく。
「あれがカリという所か!」「ちんこはあそこから生えているのか~」「タマはどんな仕組みになっているのだろう?」「おっ! あの人はタマが黒いのにちんこが赤いぞ」
ちんこを凝視し、隅々まで観察する私の視線は異様な空気を発していたらしく、数人の男たちがそっと股間にタオルを当てていた。(このお風呂は入れ墨度が高かったせいか、警戒心の強そうな人が特別、多かった)
「いけない! 私がちんこを物色していると思われたら大変だ」
私は、さらに深くお湯につかり、用心深くちんこを眺めていた。
その日から、私は進んで男湯に入るようになった。人気のない所を選び、裸になり、まんこをタオルで隠して、湯船のへりにへばりつき、深く沈み込む。まんこを見慣れている私にとっては、股間に変な形をしたものがぶら下がっている生き物は、何度観ても不思議でたまらない。私は温泉に行くたび、ちんこウォッチングを欠かさなかった。
「こんなんじゃ。温泉に入る意味がない。お湯につかるということに集中して、もっと温泉を楽しまなきゃ!」
温泉に行くたび、そう心に誓う私であったが、やはりちんこを観ずにはいられなかった。
回を重ねるごとに、私はある疑問を持ち始めた。
『なんで誰も私を不思議に思わないのだろう』という疑問だった。
股間に何かがあるのが当たり前のこの男湯の中で、異彩を放つ私のまんこは、どうみても目立つ存在である。しかも、私のように注意深く股間をタオルで隠す人など男湯にはいない。不思議に思わない方がおかしい。しかし、しかしだ、私に疑いを向ける人は、誰一人いなかったのである。『なぜだろう?』
その答えを、ある朝、私は知ることになる。
ある日、私はとある温泉でカラダを洗っていた。
“シャァー!”
『私のカラダに誰かが後ろからシャワーをかけている!』
振り返ると、後ろに座っていた男が頭を洗っていた。周りのことを一切気にせず、男は半径1,5メートルに豪快な水しぶきを上げてじゃぶじゃぶと洗っていた。むかついた私は、くるっと後ろを向き、自分のシャワーを水に切り替え、圧力全開にして、男の背中めがけてねらい撃ちをした。寒い冬の朝である。
私はずーっと水をかけていた。2分はやっていたと思う。しかし、男はそんな私に気が付きもせず、頭を洗い続けていた。
『男は何も感じない、何も見えていないのだ』
そのことに気が付いた私は、湯船から男達を観察してみた。私の説を肯定するように、男達は、自分以外は景色の一つなのだと思っているのではないかと思うほど、視線を周りに落としていなかった。その目はガラス玉のようだった。だから私の存在が目に入る位置にあっても、その目は、私のカタチを認識しなかったのだ。私は、安心しきった男達の目をじーっと見ていて、そのことに気が付いた。
男湯は、サロンのようだ。警戒心など何もない場所。白い鳩が微笑みながら自由に羽ばたいているような平和で自由な場所。そして、その場所で男達は裸になり、見えるフリをやめて、見えない目を露わにしていた。男達の目が反応するものはここにはないのだ。見えない、感じない男達同士の間で、争いは起こらない。男と男のための楽園が男湯なのだ。女湯にある開放感とも違う、無限に広がる自由の楽園がそこにはある。その中に自分たちと違う、まんこ持ちがいるなどと誰が想像するだろう。そのことを知った朝、私は女湯が恋しくなった。
つづく