最近、私は近くの温泉にはまっている。大きな露天風呂の隅っこで、誰よりも縮こまって過ごす気持ちのいい時間。あ~あなんて気持ちいいのだろう。
性同一性障害であるものにとって、温泉のような公衆浴場はトイレと並ぶ難関である。手術をする理由に温泉を上げる人もいるくらいだ。「風呂には入れない。でも俺は男! 女風呂に入るなんてイヤだ。」という人、そして“見かけが男なので女風呂に入れない人”などなど、温泉に入ってのんびりする、という当たり前のことが夢のような話なのである。
パス率90%位(男に見られる率)だったホルモンを打つ以前の私は、短い髪をヘアキャップで隠し、顔がわからないようにタオルを巻いて明け方に温泉(女風呂です)に入っていた。『宿泊客が大広間で顔を会わす食事の時間に、誰かがヒソヒソ始めたら大変だ。ここで面が割れるとせっかくの休暇が台無しになる。』温泉に入る前、私は鏡の前で慎重にヘアキャップをかぶり、心臓をバクバクさせながら脱衣所に向かっていた。『よし廊下に誰もいないぞOK!』『脱衣所にもスリッパがないからOK!』チャポン。私は急に誰かが入ってきてもすぐには見え難い、入り口から一番遠い角っこで、ワニのように水面から目だけを出すような姿勢で、深く沈み、静かにお湯につかっていた。入り口に背を向けていると、万が一人が入ってきた時、迅速に対応できない。見えてさえいれば、その人が頭を洗い泡で頭がいっぱいになった頃、背後をそっと通れば無事に脱衣所に移動することが出来る。私は注意深く水面から入り口方向を凝視して、温泉に入っていた。
しかし、どんなに注意深く行動していても失敗はあるものだ。
いつものように、お客も従業員も寝静まった明け方、私はヘアキャップを被り、スリッパがないことを確かめて中に入った。
『あ~あ気持ちいい。今日は宿泊客も少なそうだし、誰もこなさそうだからヘアキャップ取って入っちゃおう!』私はヘアキャップをはずし、内湯の真ん中で手足を伸ばし、白濁りした温泉で自由を満喫していた。その時だった。ガラガラガラ。私は露天風呂から出てきた40代位の女性と鉢合わせをした。「・・・・。」その人は、ライオンに出くわしたシマウマのように私を見つめ、固まっていた。『しまった!』次の朝、私はやはり大広間の主人公だった。"スリッパがなくても油断するな! 籠(脱いだ服が入った)のチェックを怠るな!" その日からまた教訓が一つ加わった。
温泉で思い出したが、高校の修学旅行の時も大変だった。
普段、ブラジャーをすることなくバリバリ(胸を平らにするために使う腰用のコルセット)を巻き、ボウボウの腋毛を生やしていた私は、大勢の人の前で着替えることがイヤだった。しかも私のカラダにみんな興味を示している。風呂入る前から視線が熱いのだ。
「あーぁ。旅行楽しみだな。アンティルの下着姿も見られるしね~」
私は脱ぐ前から裸にされた気分になり、一気に憂鬱になった。
『脇毛を剃ってブラジャーさえつければ問題は解決する。しかし・・・』
“腋毛を剃ることは私が自分を諦め、社会に合わせることだ”と、思っていた私には、旅行中だけ腋毛を剃って、ブラジャーをつけるなんてことはどうしてもできなかった。私は悩んだ。行くのをやめようとさえ思った。『でもやはり行きたい!馬刺しが食べたい! そうだ! 風呂に入らなければいい。しかし5日間お風呂に入らなかったら“不潔!”とも言われかねない。残りの高校生活を私は“不潔”というレッテルを張られたまま過ごすというのか?!』
悩んだあげく私が選んだ選択。それは"不潔"と呼ばれる道だった。
ホルモンを打ち始めた私は、温泉に入れなくなった。もうヘアキャップやタオルでは隠しようがない。私のお尻には濃い毛が渦を巻き、まんこの毛は太ももと一体化している。『もう無理だ・・・。』手術をするまでの数年間、私は温泉に入ることを諦めた。
その数年後、私は胸の除去手術を受けた。髭面だし、もう胸もない。この状態で男湯に入っているFTMもいると聞く。しかし、私の胸は、ただえぐられただけの痛々しい形をしていた。男の胸としては不自然だ。しかもチンコもない。
『いくら髭面だっていっても、私がオンナだって見破られるかも?!!そしたら、何をされるかわからないし・・・・怖い。』
私は男湯に入ることを躊躇していた。
しかしある冬、「大丈夫だよ!」と、私の胸を見たことがある友人(まんこ持ち)に後押しされて、ついに男湯に入ることにした。『よーし行くぞ!!』肩をいからせながら私は脱衣所に入るのれんをくぐった。私の目にまず飛び込んできたのは“お尻”だった。男のお尻。子供の頃に見た父のお尻以来、見たことがない男のお尻が、いっぱい並んでいる。『ワッ!』私は軽くパニクった。『とにかくロッカーを探さなきゃ!あそこの、人のいない所にあるロッカーにしよう』私は一直線にロッカーを目指した。その時だった。後ろ向きだった男が向きを変え、
こちらを向いた。『ち ん こ だ・・・』そして、その向こうにも無数のちんこが並んでいた。
私はほとんどちんこを見たことがない。父のちんこ、幼なじみだったまーくんのちんこ(小学校低学年)、そして暗がりから飛び出してきた、ちかんのチンコ。30年以上の私の歴史の中で3本しか存在しないちんこ。そのちんこが、記録を軽く塗り替える数で今、そこに存在する。『※?△◎!』私は動揺した。『落ち着けアンティル。』私は深呼吸をして心を落ち着かせた。『とにかく無事にお風呂に入らなきゃ!』私は「寒い」とわざと呟きながら腕を前に組み、胸を隠し、タオルをまんこにあてながら洗い場に入っていった。アンティル・ミーツ・ちんこ。
それは私の知らない世界の入り口だった。
つづく