寒い寒い寒い。引っ越したばかりで、まだまだ殺風景な部屋は温度も低い。古傷が痛んでしかたない。除去した胸に断続的な痛みが続く。
性同一性障害の治療は、ホントに性同一性障害であるか診断するための精神科通いから始まる。そこで晴れて合格したらホルモン療法を受けることができるのだ。ホルモンを打つことのメリットは、“髭や体毛が濃くなる、声が低く、筋肉がつきやすくなる”など、外見が男性化することと閉経である。
もちろん、デメリットもあり、身体への影響は避けられないものなのだといわれているが、当時の私にはその重大性を感じることができなかった。“吹き出モノが出来る、のぼせる、禿げる、太る・・・”事前に医師から説明を受けた私の印象は『医師もまだよくわかっていないんだなぁ~』ということだった。
当時はまだ、性同一性障害の治療が始まったばかりで、ホルモン療法を受けている人が少なかった。“闇”と、呼ばれる高値で誰にでも注射する場所でホルモンを投与する人は、前からたくさん存在していたが、先人達の記録はカルテに記されることがなかったために残ってはいない。あるのは外国の症例と、ここ2,3年の記録だけ。どちらしても、ホルモン療法を受けたFTMの数十年後の身体など誰も知らないのだ。だから医師も「まだまだわかっていない事が多い。定期的に検査をしながら、一緒に考えていきましょう。」と私に説明していた。そんな状況だから、どうも医師が告げる“デメリット”にも説得力がない。それよりも“ニューハーフ”の友達たちが飲みながら話していたことのほうが、私には真実に感じられた。
「ほら、あそこでベロンべろんになっているコ、今日ホルモン打ったのにお酒飲み過ぎてるからおかしくなってんのよ。クスリ打ったようになっちゃうから、要注意なのにね~。」
「ホルモン打ち過ぎるとバカになるのよ。だって○○さん(ホルモン歴10年)九九の8の段、言えないのよ」
「鬱病になる人も多くて、私の知り合いも何人か死んでるのよ。」
「私の友達のオナベバーの人に聞くとね、ホルモン打つとその晩、いてもたってもいられないくらい性欲が高まるんだって。」・・・
私には、彼女達から聞いていた情報の方がリアルだった。
『鬱病にならないよう、明るく生きよう』
『絶対、ホルモン打った日は、お酒を飲まないぞ!』
『頭の回転が鈍くなると困るから、仕事がない日にホルモンを打ちに行くことにしよう』
『高まる性欲・・・。オナニーが楽しみだ!』
私は友人達の教訓を胸に、病院に向かった。
向かうは、泌尿器科。緊張しながら私は順番を待っていた。FTMだと思われる人が数人座っている。MTFらしき人もいる。しかしその数は全体から見ればほんの数人。泌尿器科はオヤジ達で溢れている。泌尿器科というものよく知らない私は、泌尿器科=“オヤジがチンコやお尻を出す場所”というイメージを持っていたため、治療台でパンツを下ろすオヤジの絵が、頭の中でスライドのように映し出されていた。私は待合い室で嫌悪感を拭おうと、一人格闘していた。
名前が呼ばれる。「アンティルさん。」ここでは、患者が希望する名前で呼んでくれる。看護師の方も積極的に勉強されている方が多く、いろんな気遣いをしてくれる病院だった。診察室に入ると“赤ひげ先生”というイメージがぴったりの50代のきさくな男性医師が座っていた。
「アンティルさんかぁ~。よろしくね。・・・(デメリット・メリットの説明を終えて)と、いってもまだまだ分かっていないことが多いんだ。検査をしながら、一緒に考えていこうね。」
『この先生でよかった』権威を振りかざさず、屈託なく話す医師が担当医で、私は少し安心した。
「じゃあ初めは○○ミリを毎週打ってみようか。筋肉注射だよ。腕を出して。」
私は、これから始まる未知の世界があっさり始まろうとしていることを不思議に感じながら腕を捲った。
「いくよ!」
周囲の目から逃れ普通に歩き、ものを食べ、ラブホテルに入ることを断られないために始めたアンティル男化計画。ヒソヒソうわさ話をされすに快適にご飯を食べるために、オーダーする前には必ずトイレに入り、口にハンカチを抑え“オエオエ”言いながら「あ・あ・あ・あ・あ~」と気味の悪い発生練習のをしていた日々。「男にしては目が優しい。だから、あなたオンナだろう。レズめ」と言われ、夜でもサングラスをかけ、そのためよく道でコケていた夜。それまでの15年間の日々が頭の中を駆けめぐる。
『やましいことはしてないんだから、私がちゃんとしていれば、私が誰を好きになろうがいつか世間も私を攻撃しなくなるはず。私は誰のためにも私を変えない! 私は“オンナが好きな私”を守る。』
そんな信念を持ちながら、“オンナを好きになる人=男”という世間の常識に自分の姿を合わせ、男になっていった私。
就職もし、自分の力でご飯を食べられるようにもなり、『“ノンホル(ホルモンを打っていない)”でもFTMとして生きてきました!それが私です!!』という15年間の積み重ねの上にできた自負が、性同一性障害の治療を始めることを躊躇させ、『もう周囲の視線から解放されて楽に生きてもいいんじゃない?!』という自分への労いが、私に病院の門を叩かせ、始まった性同一性障害。
『とうとう始まるか。』
指されようとする注射針を見ながら、私はこれから自分のカラダが変わっていくという新たな世界への期待の中で、悔しさにも似た寂しさが心の奥の奥で存在を主張しているのを感じていた。
「ブスッ!」
激痛が腕の中を通り、カラダ中に響く。1口で飲み干せるほどの微量な液体が私を変える。『私がこれまで苦しんできたことがたったこれだけのことで解消されるのか※?△□○”・・・』
この日からアンティル・男化計画薬物編がスタートした。