この週末、私は講演会をするという北原さんと共に大阪に行った。私の目的は食い倒れだ。たこ焼きにてっちりにお好み焼き・・・、頭の中を食べ物でいっぱいにした私は未開の地、大阪に向かった。前日から食べ物のことばかり考えていたせいか、伊丹空港ではどこにも店がないのにたこ焼きのいい匂いがした。
まずは北原さんが講演する場所を目指し、バスに乗り込む。土地勘がまったくない私は、そのバスの行き先がどんな所なのかわからない。まるで外国にでも来た気分だ。「ここで乗り換え」北原さんの引率で、私は休日を楽しむ人達で賑う郊外のターミナル駅で電車に乗り継いだ。ここから数駅先が目的地だという。梅田、難波、聞き覚えのある地名を背にして電車は南へと向かった。
天気のいい週末の午後、私が降りた駅は、お店が数軒しかない殺風景な駅だった。「大きい大学がある街だから、学生がいないときは静かな街なんだなぁ」などと考えながら、東京ではあまり見ることがない、隙間だらけ街をぼーっとしながら歩いていた。見かけるのは、学生らしき人ばかり。キレイなキャンパスは、ここが学園都市であるかのように私に思わせた。東京なら埋もれて気が付きもしないであろう、低いビル位の高さの銭湯の煙突が、空にニョキっと伸びている。すぐ近くにあるかと思ったその煙突は、歩いてみると、けっこう遠くて驚いた。
北原さんが講演をした場所「浅香人権センター」は、昔、「朝霞地区解放会館」と呼ばれ、差別に苦しむ人達が行政を相手に戦ってきた場所だった。
この街は、長い間、社会から封じ込まれかのような地理的条件の中で、存在し続けた。南には河、西には大学、東には橋、そして北は甲子園球場3つ分という広大な地下鉄の車庫、四方を囲まれ、近隣の街への出入り口は2本の道のみ。80年代後半に地下鉄の車庫が撤去されるまで、この街は社会から閉ざされてきた。消防車も入ることが出来ない迷路のように走る路地。
この街には、今も警察も郵便局も消防署も病院(診療所は77年に設置)もない。
10代から20代初めの頃、私は毎日悩んでいた。“オンナが好きな私”に向けられる容赦ない視線と暴言。傷つきながら、その中で自分がどう生きられるのか懸命に探していた。男の格好をして歩く私、女とセックスする私。私のいる場所は、どんどん空気が薄くなるから、私は窒息しないよう、自分の存在が消されてしまわぬよう、小さな穴に顔を突っ込み少しずつ息を吸っていた世の中が変わるなんて希望はなかったが、私を理解してくれる人はどこかにいるはずだ。と思いながら探していた。
そんな時、一本の電話がかかってきた。当時つき合っていた人の母親からだ。
「あなたがいるだけで、うちの娘は不幸になる。あなたのような人はいるだけで迷惑なのよ。」
とても辛い時期だったので、私はこの言葉に深くやられてしまった。
『生きているだけで、誰かに迷惑かける存在って・・・。みんなと同じように人を好きになって、セックスして、大切だなぁって思って、それだけのことにここまで言われる私って・・・』
電車の中で私が女か男か、ひそひそ話されたり、いきなり「あんたレズなの?」って街で声をかけられたり、それまで社会から向けられてきた悲しい視線が、この電話をきっかけに、一つの大きな目となって私を凝視し、離さなかった。
“オンナが好きな私が私”それをやめることは自分を殺すことのように思えたから、私には諦めることなど考えられなかった。そして追い打ちをかけるように、私はある人から同じようなことを言われて、どうすることも出来なくなった。
性同一性障害という病名が私に付けられてから、私の存在を公然で否定する人は少数派となり、生活が少し楽になった。自分を表す言葉が生まれ、面倒臭い説明がいらなくなった。病気だから周りも優しい。先日、私がオンナであることを知っている仕事関係者の知人(男)と話している時、知人の仕事仲間に「この人もしかして女の人?」と聞かれたことがあった。その時、私が話すより先に知人が「男です。」とピシャリと強い口調で言ったのだ。普段は、私は自分とは違う世界の人だと距離を置き、コミュニケーションをとろうとしない人の言葉だったので、私は知人の言い方に少し驚いてしまった。マッチョ男の知人ににも浸透しているFTMの人権。10年以上前では考えられない世の中の変化を私は感じた。しかし「かばってくれてありがとう」と知人と握手でもしそうなその場面で、私は私の中に『ありがとう』を見つけることが出来なかった。自分の心の奥の奥まで覗いても、感謝の言葉はどこにもない。『私は性格が悪いなぁ~』と反省しつつ、モヤモヤした思いを抱えていた。
そしてそのモヤモヤが何だったのかを浅香の街は教えてくれた。
私についた病名は、私が堂々とオンナが好きだと言える環境を提供してくれた。しかし、それは、男と女の2極化された世界の端に、隔離された世界を作っただけなのではないか、その世界の住民に付けられた名札が、性同一性障害。名札がついていれば、社会は安心して自分達の場所に出入りすることを許す。そして“人権”を守ったということで、自分に安心する。
知人に「ありがとう」と言えなかったのは、知人がただ“人権”を守るという行為を行っだけのように思えたからなのだ。
浅香の街は大きく変わった。地下鉄の車庫が撤去され、大きな公園になっている。昔からの家は壊され、集合住宅が建てられた。人権センターの方から教えてもらうまで、私はこの街がどんな差別を受けてきた所なのか、想像すらできなかった。奇麗な公園。楽しそうにサッカーする大学生。閉ざされた街を変えるまでの、この街の人達の怒りや苦しみは私の想像を遙かに超えるほど大きなものだっただろう。昔に比べたら、住みやすくなったのだろう。少しは楽になったのかもしれない。ホントによかった。と、誰もいない道を歩きながら、見えない誰に私は呟いてみた。しかしその反面、差別の行方が今歩いているこのコンクリートの中にあるように思えてとても怖くなった。見えずらくなった差別。「俺達は人権に配慮した。ちゃんと認めてるだろう。」と叫ぶ声が、向こうから聞こえるような気がした。
昔からこの街に建つ、銭湯の煙突。この煙突を今でも多くの人達が必要としている。浅香の街の集合住宅にはお風呂がない部屋が多いらしい。
遠くの街まで見渡せるような、奇麗な公園を眺めながら、私は差別と人権というものを考えずにはいられなくなった。そして見えないものを、名札がないものを視界から排除しようとする、この世界にケンカを売りたくなった。