今日私はちらし寿司を食べた。目の前に出された、どんぶりを見つめながら、私はやはりどんぶりが大好きだと実感していた。カツ丼、親子丼、ちらし寿司にウニ丼。どんぶりを食べている時、私はほっとする。
数人の友人とごはんを食べに行くと、たいてい、いくつかの料理をみん なでシェアーしようということになる。私がそこで「ハンバーグ定食一丁!」なんて言おうものなら、私は場を無視する食いしん坊になってしまうから私は、「ハンバ・・・」まで出かかった言葉を必死に抑える。一つのお皿をみんなでつつき、談笑する夕ご飯。私は笑いながら心の中でため息をこぼす。「またシェアーか・・・」
ごはんをシェアーしようと、言い出す人が私の前に現れたのは、今から 10年ほど前のことだったと思う。それまで食べ物をシェアーする習慣 が”お酒のつまみ”を食べる時以外にはなかった私は、ごはんをシェ アーしようとするシェアラーに初めて出会った時、とても驚いた。初め て出会ったシェアラーは、私にパスタをシェアーしようと言ってきた。『パスタをシェアー?!』私には想像がつかない突飛な発想。その奥に どんな真意があるのか私は考えた。
「そうか、この人は欲張りな人で、いろんな種類を食べたいからシェ アーするんだ。ほっほっー珍しい人だ」
しかし、珍しい存在は私のほう だった。
日増しに増えるシェアラーに私は占拠され、言葉を失っていった。
「み んなでこのケーキ、シェアーしない?!」
『(私)ケーキをシェ アー?!』
「オムライスとパリパリサラダとアスパラの肉巻きをシェ アーしようよ!」
『(私)オムライスのケチャップの量は誰の好みで決 めるというの?!!』
『今日こそ、このパスタ一皿全部食べたい!』
急増するシェアラーの中 で、一皿主義の私は食事のマナーを知らない協調性のない食いしん坊に なっていった。
食べ物に関する私の欲望の単位。それは1皿で1つなのだ。頼みたいも のを考える時に、私はこれを1皿食べたいかどうかを基準として考える。しかし、そ んな私の基準が通ることなどほとんどない。どの皿もみんなのモノなのだ。大勢で食べ る楽し夕ご飯の席で、一単位もとれない食事に私のお腹は悲鳴を上げる。「自分のお皿がほしいよ~」しかし私の言葉は誰にも届かない。
なぜ私はシェアーしたくないと言えないのか?
それは数年前の出来事がきっかけだった。
すごくお腹がすいていて、夜ごはんをとてもとても楽しみにしていたある日。
いつものように友人達が、「シェアーしよう!」と言い出した。その日、どうしても一皿主義を通したかった私は、思い切って「私は コースを食べる」と宣言した。その時だった。友人達の顔が一瞬にして変わり、私を見る目 が変わったのだ。その目は、満腹になりたいという私の食欲に嫌悪を示しているような冷 たい視線だった。私はその時、一皿主義に向けられる視線を思い知った。
私がシェアーしたくないと言いづらい理由。それは私の中に食欲への偏見があるからだ。”食欲満々=下品な人に思われるかも”そういう偏見がいっぱしの一皿主義者になる道を拒んでいるのだ。一皿主義の敵はシェ アラーではなく、私自身だったのだ。
「私はごはんを人とシェアーするのが嫌いだ!」
欲 望のままに生きるのは、難しい。