上戸彩が性同一性障害で悩むFTM役を演じて話題となった金八先生が、最近また再放送されている。このドラマが放送された当時、私は性同一性障害の認知度が、日増しに上がっていくのを実感していた。性同一性障害である自分を説明するのために使う言葉が少なくなったからだ。「金八先生のナオ(役名)と同じ」それだけで事が足りてしまう。ドラマは私への見方にも影響を及ぼした。「ナオってアンティルっぽくない?!」「アンティルも喉に刃物突き刺したくなったことある?」「これまでアンティルに対して理解不足でした。ごめんなさい」これまでどんなに言葉を尽くしても納得しなかった人達までもが、私に理解を示し始めた。私は時の人、金八先生の力を思い知った。
今私は、久々に金八先生を見ている。そして私は性同一性障害が映し出す社会をはっきり見せているこのドラマから目が離せない。
私は数年前まで、ある会社に勤めていた。社員20名足らずの小さな会社。オンナでありオンナが好きだということを知った上で、この会社は私を雇ってくれた。私はいろんな会社の人が集まってチームを組む、現場仕事を数カ所受け持っていた。勤続10年、中堅社員となった頃、私は上司Aに呼ばれた。
「そろそろ社内の部下を使えるようになってくれ。そうじゃないと、やばいぞお前、俺はオマエのことが心配なんだ。」
私は仕事にのめり込むタイプで、社内の部下(この頃はすべて男だった)からの信用が薄いと言うのだ。
上司Aは男社員の憧れの的だ。不条理なことには従わず、己のセンスを信じ突き進むかっこいい上司A。Aと仕事を共にできるというだけで、男達は舞い上がっていた。Aと男達の関係は、不良チームのリーダーと手下によく似ている。
それはこんなイメージだ。かっこいいバイクを乗り回し、世の中に背を向けるアウトローなリーダー。その背中に憧れ、同じバイクに乗り、後を追い続ける手下達。一緒にいるだけで、自分もかっこよくなれたかのような錯覚さえ与えるカリスマリーダーは、男の輪を作りながらも、俺には関係ないと距離を持つ。いけずなリーダーの決め手は、ぽつりぽつりと語るオレ話し。これで手下はイチコロだ。何があってもついていく。そして男達は、何も言わずとも強い絆で結ばれていく。おわり
私はAの真似をしようと思った。
まず私は、後輩をよく飲みに誘うことにした。2つ返事でついてくる男は誰もいなかった。どうにか飲み屋まで連れ出した私は、後輩に酒を進め、精一杯、場を盛り上げた。しかし、盛り上がっているのはいつも私だけだ。1時間が経過、飲みも後半戦に入った頃、私は作戦を実行する。練りに練った私の夢をトーンを落として語り出すのだ。力説15分。しかし、後輩の反応は酒を飲んでいるのに冷静だった。
「へ~~え、頑張ってください。そいでさぁ・・・」
私はAのようにはなれない。
敗因はキャラクターの設定ミスだ! と、思った私は、自分に合った上司像を描いてみた。友達のように何でも相談できる、同僚のような上司。何かトラブルがあった時にはさりげなくフォローし、信頼関係を築いていく懐の深い上司。私はまず、後輩の前でおどけることで双方の距離を縮めることに努めた。仕事に失敗した後輩の前では、それよりもバカな私の失敗話しを披露して励ました。
ある日、私は、失敗を繰り返す後輩Bのために、現場の長に頭を下げに行った。散々怒鳴られた帰り、地下鉄の中で何事もなかったかのようバカ話しをする私に、Bは笑いながらいった。
「アンティルさんってペットみたいですよね~」
Bは私の背中など見ていなかった。男達のペット、会社のペット。しかし、私はこの言葉に驚きつつも、ペット=マスコット=親しみのある人と言われたような気がして喜んでしまった。
“後輩を上手に引っ張れないお前は、社会人失格だ!”と言われたような気がしたから、私は無我夢中で頑張った。『男が嫌いで、仕事をするまで男と親密な関係を作くる必要がなかった私だから、きっと他の人のように上手くコミュニケーション出来ないんだ。』『私が性同一性障害だから相手が戸惑うのではないか?』と、私は関係が上手くいかない理由を自分に求めていた。信頼関係が築けないのは自分のせい。だから私は努力しようと思った。後輩を上手に引っ張れない、信用されないお前は仕事ができないと言われて、私は生まれて初めて男と仲良くなろうとした。でも私は結局ペット止まりだった。
金八先生の中に登場するFTMのナオは、学校生活の中で、自分を失わないことに必死になっている。ドラマが進むにつれ、そんなナオを“男女”とからかっていたクラスメートも、性同一性障害の知識を得ることで、しだいにナオを受けいれ始めていく。クラスメート全員から受けいれられるナオ。画面にはナオの周りを囲む男子生徒が映し出される。ドラマのハイライトシーンだ。
「これからはオレ達の仲間だ。」男子生徒は、力強くナオの肩に手を回し、固い友情を結ぶ。太陽が燦々と注ぐ土手のシーンでは、どっちが早く走れるか競争しようという男子生徒達の誘いに、ナオは喜びの笑みを見せ、横一線になったスタートラインで、そこに加わることが出来る喜びを噛みしめる。ナオは、男子生徒から同じ男という認証をもらったことで、ようやく本来の自分をえていくのだ。
ナオにとって学校は社会の象徴だ。
会社は小さな社会だ、その社会で私はうまくやっていこうと努力した。
“部下から信頼される上司にならないと、どんなに仕事がうまくいっても評価されない”というから頑張った。後輩にやって当たり前のような顔をされても、私は頭を下げ続け、後輩と良好な関係を作ろうとあーでもない、こーでもないと考えた。でも私は何とうまくやろうとしていたんだろう。
私は今になって思う。社会(会社)とうまくやっていくということは、男と、どううまくやっていくかということた。社会と男は同義語だ。男に認められなければこの社会では生きていけないぞ。そういうことだったんだということに、私は最近気がついた。性同一性障害のナオも私も、自分が自分のままで楽に生きることが出来る社会を求めている。私は私のものだと叫んでいる。
しかし、私を認めるハンコを持っているのは社会という男だ。私はそのことに長い間気がつかずに、無駄に頑張ってしまった。油断をすると簡単に引きずり込まれてしまう罠が、この世界にはきっと溢れている。
「それでいいのかナオ!」結末が決まっているドラマを見ながら私は叫ばずにはいられない。